3月号
有馬温泉史略 第三席|行基による再興~伝説か? 真実か? 奈良時代
語り調子でザッと読み流す、湯の街有馬のヒストリー。
行基による再興~伝説か? 真実か? 奈良時代
さて、飛鳥時代に舒明天皇、孝徳天皇が入湯した有馬温泉ですが、その後はと申しますと有馬温泉の歴史に関する文献ではだいたい、天皇の行幸が途絶えて荒れ果ててしまったところ、あの!スーパースターがやって来て、見事に再興、というお話になっております。
そのスーパースターとは誰か?そう、行基でございます。ザッとご紹介すると、行基は668年に現在の堺市西区、当時の河内国(※)大鳥郡で渡来人の家系に生まれ、15歳で出家、24歳で受戒してその後飛鳥寺へ。前月号の平尾工務店の記事に載っていた元興寺の前身ですね。ここで修行したときに道昭に学んでいたといいます。道昭は舒明天皇が始めた遣唐使、しかも孝徳天皇が送り出した第2回で唐に渡り、西遊記の三蔵法師こと玄奘にかわいがられたとか。何の因果か、有馬フリークの天皇が微妙に関係しているんですね。
行基は道昭の影響を受けてか、庶民の中に入り込み仏教を布教しつつ、困っている人のための救護所を建てたり、橋を架けたり、道を通したり、港や池を築いたり、農地を開拓したりと、当時の畿内の社会事業の大プロジェクトは「ほとんどギョーキ」。最初は弾圧していた朝廷もその実績を無視できなくなり、743年に聖武天皇から東大寺大仏建立への協力を依頼され、その翌々年に大僧正に任命されますが、大仏開眼3年前の749年、奈良で入滅しました。
で、行基は有馬温泉で何をしたかというと、724年に有馬に来て、薬師如来をお祀りする薬師堂、僧侶を育成する蘭若院、医薬を施す施薬院、故人の菩提を弔う菩提院を建立したとか、貧民救済のため十二坊を整備したとか、それで有馬温泉は繁盛したとか、というふうに伝えられております。その根拠となっているのは「温泉寺縁起」です。ちなみにこの温泉寺は明治時代の廃仏毀釈で廃寺となり、現在の温泉寺は旧温泉寺の奥の院だった清涼院がルーツとなっています。
でもね、これで「よかったよかった」で終わりません。実はね、行基研究の基礎中の基礎に「行基年譜」や「行基菩薩伝」という文献があるんですが、これらには有馬の「あ」の字も出てきやしません。すでに超メジャー温泉地となっていた有馬のことが業績として記されていないということは…行基は有馬に来たことすらない!のかも。
だとすると、なぜ行基伝説が広まったのか?まず「神話よくね?」から「ビバ!仏教」へと民衆の信仰がかわり、健康祈願が有馬開湯伝説の二神から薬師如来へとシフトしていったという背景があることが考えられます。また、行基信仰を伝えたのは中世の修験者たちではないかという説もあります。
でもね…「行基年譜」によれば行基が摂津で活動をはじめたのは730年なので、前述の724年というのは眉唾だけど、行基が有馬に来た可能性はまるでゼロ、という訳じゃない。その頃有馬の近くには、秦氏など渡来人が住んでいた。そして、有馬の山の中には、粘土を求める陶工、材木を採る木工、鉱石を探す鍛冶など、技術系を生業としていた渡来人が多く出入りしていたと思われます。行基は一時期、崑陽施院や大和田船息、つまりいまの伊丹や神戸に居た。で、渡来人と太いパイプを持っていた行基は彼らに招かれて、滞在地にほど近い有馬温泉の湯に浸かった…十分あり得る話ですよね。
あるいは、行基は集団で大事業を成し遂げてきたので、行基本人ではなくともその集団の一派や信者たちが有馬で活動した、なんてことも十分想像できますよ。
火のないところに煙は立たぬ、伝説には根拠があるものです。行基が再興したかはともかく、サイコーの僧、行基が来訪したと思いたいものですね、歴史にはロマンがつきものですし。え、有馬温泉は火がないのにいつも煙が立っているって……?
※行基の出生当時、大鳥郡は「河内国」だったが、753年から「和泉国」となった