3月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から 70 雪の中で山鳥を拾つた
詩人田中冬二の手紙を見ている。いや、わたしに来たものではない。若き日の宮崎修二朗翁に宛てたものである。
宮崎翁については拙著『触媒のうた』(神戸新聞総合出版センター)に詳しく書いたが、兵庫県文化の恩人ともいえる人。
封筒には懐かしい法隆寺壁画の十円切手が貼られていて、昭和29年7月19日の消印がある。
手紙の内容は、冬二の詩「城崎温泉」を使用することへの応諾。
神戸新聞紙上に「郷土文学アルバム」と題した宮崎記者による連載が始まったのは昭和29年。これに関するものと思われる。その後、この連載は『文学の旅・兵庫県』(神戸新聞社)という一冊に結実し、兵庫県の文学研究者には必携の書となっている。これが翁の処女出版本なのだ。
その「城崎温泉」という詩。
飛騨の高山では「雪の中で山鳥を拾つた」といふ言葉がある
私は雪の中で山鳥を買つた。
可哀相に胸に散弾のあとのある山鳥を
さむい夜半だつた。
私はそれを抱へて山陰線の下り列車を待つてゐた。
想像していた詩とは大いに趣が違っていて、温泉地の情緒はない。
ところで気になることがある。
この詩の出だし。
《飛騨の高山では「雪の中で山鳥を拾つた」といふ言葉がある》
「雪の中で山鳥を拾つた」にどんな意味があるのか?わざわざカギかっこに入れてある。これには意味があるはず。飛騨高山でのみ通じるような故事来歴があるに違いない。それは何なのか?それがわからなければこの詩の真意は解らないのでは?
わたしは『文学の旅・兵庫県』を繙いてみた。宮崎翁はこう紹介している。
《城崎温泉――。心にしみ入るような一篇の詩が私のノートには記されていた。それは田中冬二氏の詩集『山鴫』のなかの「城崎温泉」というつぎのような短いものではあったが…。》
この後に先の詩が載っている。しかし、「心にしみ入るような」と言いながら、「雪の中で山鳥を拾つた」についての説明はなにもない。わたしの疑問は残ったままだ。翁にお尋ねできれば即座に解決するのだろうが。いや、「それはあなたが調べることです」とおっしゃるかもしれない。
少し調べてみたが、見つからない。わたしの貧困な知識量では歯が立たないのだ。
高山まで行って調べればわかるかもしれないが、その気力が今のわたしにはない。
冬二氏の手紙にこうある。
《あの作品は小生が島根県の出雲今市に居りました頃(大正二年十二月から仝五年頃まで)山陰線で度々大阪まで仝地との間を往復しましたが適々途中城崎へも下車しました。それを後年書いたものです。》
やはり「山鳥」のことには触れておらず、この後、但馬での思い出で文が閉じられている。
《あの雪の積った城崎の温泉の町の燈火の色など只今も憶出と共に目に浮んで来ます。それから但馬の海岸もなつかしく思ひます。
鎧 香住 浜坂などと云ふ駅名も忘れません。
浜坂の詩がありますから御参考に御目にかけます。先は返事まで申し上げます。
匆々不悉》
その「浜坂」の詩も宮崎翁は「浜坂にて」の章に採用しておられる。
新月が出ていた
暗い町の辻に
日本海の怒涛がきこえた。
針問屋は重い戸を下してゐた。
冬二氏からの手紙を紹介しながらの解説。わたしが今ここに手にしている手紙だ。針の先で書いたような細いペン字の繊細な書体。70年近くも昔の手紙である。
さて「雪の中で山鳥を拾つた」だが、原典を知る人はないでしょうか。お教えください。それともこれは、もしかしたら冬二の創作だったのか。
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。西宮芸術文化協会会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)ほか。