2月号
有馬温泉史略 第二席|有馬温泉の本当の起源と 天皇の行幸 飛鳥時代
語り調子でザッと読み流す、湯の街有馬のヒストリー。
有馬温泉の本当の起源と 天皇の行幸 飛鳥時代
まずは前回のおさらい。有馬温泉の起源は、神様コンビがたまたま傷ついた三羽の烏が湧き出ている赤い水を浴びてケガを癒やしていたところに遭遇、それが温泉だった。はい、それでよろしいですね。
え?伝説で誤魔化すなって?本当はいつ見つかったのかって?ヘーヘーホーホー、わかりましたわかりました。今回はもう少しリアルな有馬開湯のお話を。
有馬温泉の文献上のデビューはご存知『日本書紀』で、舒明天皇のところに「三年秋九月丁巳朔乙亥幸干摂津国有間温湯、冬十二月丙戌朔戊戌天皇至自温湯」とあるのが最初の記述。「有馬」は「有間」と記していたようですね。この「三年」というのは西暦631年で、舒明天皇はその7年後に再訪。さらに647年に孝徳天皇も有馬温泉へ行ったとも記録されています。
とは言え「行幸」ですから、知事がヴェルファイヤでワーケーションへ行くのとは訳が違います。多数のお伴の者を引き連れ、現地にお宮を造営して、言わばプチ遷都みたいなもんです。孝徳天皇の有間行幸の際、地元の山の木を伐採してお宮を建てたという記録があり、その木が良かったもんだから天皇が喜んで「功地山」(※)と名付けたという説も。そんな由緒ある土地に「北六甲台」とか無味乾燥な名前を付けてしまうあたり、文教都市を自称する西宮市の文化レベルも知れたもんですなぁ。
で、そのお宮はどこだったかというと、これは想像ですが、有馬温泉まで山道の上り坂、材木をえっちらおっちら運んだというのは合理的じゃないので、功地山の近く、現在の西宮市山口地区に建てて「ここをキャンプ地とする」って感じで、そこから有馬温泉へ通ったんじゃないでしょうか。ほんで、この人の話は長くなるので割愛しますが、孝徳天皇の皇子、有間皇子の存在もそう思わせます。山口地区の名来は江戸時代まで「千足」とよばれていて、皇子の母、小足媛と関係があるとかないとか。あるいは当時の習慣から乳母ゆかりの地名を皇子につけたそうで、乳母が地元の人だから「有間皇子」となったという説も。また、現在は有野に鎮座する有間神社も当時は名来にあり、舒明・孝徳両天皇もお詣りしたそうです。
で、有間行幸の目的は療養ではないかと。儀礼や朝廷の権威誇示という見解もあるようですが、権力闘争が絶えない中、天皇が長期間都を留守にする、つまり政治的空白というリスクに代え難いのは、そりゃ天皇の健康でしょう。医療が未熟な飛鳥時代、体の調子を整える温泉はクスリみたいなもの。飛鳥でクスリ…「♪迷わ~ずに~」温泉行きを断行したのでしょうか。
とは言え、天皇がやって来て湯に浸かったことがすなわち有馬温泉のはじまりではなく、その前に地元の人が見つけて、その情報が都に伝わって行幸に結びついたと考えるのが自然ですよね。実は、信憑性が高いとされる鎌倉末期の『釈日本紀』に、「摂津風土記」の記事として「有馬郡に塩原山があり、その近くに塩湯があって昔、難波宮から孝徳天皇が行幸された。その発見された時代は、土地の人たちはその時の天皇の名を知らぬが、嶋の大臣の時であることだけは知っていた」という内容が載ってます。「嶋の大臣」とは蘇我馬子で、大臣任期は572年~626年です。
まとめると、有馬温泉は6世紀はじめには発見されていて、飛鳥時代に舒明天皇・孝徳天皇が入浴したというのが真実のようです。なお、舒明天皇は最初の、孝徳天皇は2回目の遣唐使を送り出しましたが、そのことが次回に繋がってきますので、それまでお行儀よくお待ちください。
※読みは「くち」「くむち」「こうち」と諸説あり