9月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~⑰島田叡前編
「生き延びて再建を…命を懸けて島田叡が遺した思い」
〝神戸の野球少年〟の不屈の魂
先月15日、日本は76回目の終戦記念日を迎えた。終戦を前に1945年6月末。神戸で生まれ育った一人の官僚が、激戦地となった沖縄県の南部で壮絶な最期を迎えたことを知る人は、今、どれだけいるだろうか。戦中最後の沖縄県知事、島田叡(1901~1945年)。米軍の包囲網を脱し、自ら先頭に立って県民を率い、塹壕へ避難させた後、「皆は生きてくれ」と言葉を残し、帰らぬ人となった。享年43。己の命を顧みず、最後まで県民の命を救おうと、知事としての職務を全うした。
今年の春、一本の映画が全国で公開された。
タイトルは「生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事―」。43年間の島田の生涯を辿ったドキュメンタリーだ。
映画の中に登場する島田の知人や沖縄で彼と過ごした県民たちの証言から、彼の人生が、常に自分を犠牲にし、職務に忠実に、人のために戦い続けてきた人生であったことが鮮明に浮き彫りにされていく。
彼の生き様を知る人たちは、今も彼を「役人の鑑」と呼んで慕い、後世へ語り伝えている。彼はどんな役人だったのだろうか…。
「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか」。1945年1月、内務省の官僚で、大阪府内政部長(当時の副知事)だった島田は、沖縄県知事への赴任を打診され、即答でこれを了承した。
第二次世界大戦で劣勢に立たされ、いよいよ米軍による上陸が目前に迫っていた時期の沖縄への着任。知人の多くが、彼の身を心配し、辞退するよう進言した。家族も猛反対したが、彼はこう言って固辞した。
「俺は死にとうないから誰かが行って死んでくれとは、よう言わん」と。
1944年10月、米軍による激しい空襲で、県庁のあった那覇市の大部分が焼け野原となっていた。同年12月、島田の前任の知事は東京へ帰ったまま二度と沖縄へ戻ることはなかった。つまり、前任者が「職場放棄」した危険な任地への辞令を、島田はひとことの文句も愚痴も言わずに了承したのだ。
異色官僚の信念
この屈強な精神はどうやって培われたのだろうか。
1901年、現在の神戸市須磨区で「島田医院」を開業する医師の長男として生まれた。
〝野球少年〟として育ち、旧制神戸二中(現県立兵庫高校)の野球部で主将を務め、東京大学法学部に進学後も野球部で活躍した。
まだ、プロ野球がなかった時代、大学野球のスター選手として名を轟かせた彼の名は、今も東京ドームの中にある野球殿堂博物館に刻まれている。
大学卒業後、1925年、内務省に入省。キャリアとして一度も東京の本庁勤務を経験することなく、日本各地、10府県を転々と赴任。周囲からは〝異色の官僚〟と呼ばれた。
彼にまつわる、こんな証言が残されている。島田が赴任した府県へ、中央から度重なる無理難題の命令があったというが、彼は毅然とこう断っていた。
「本県には本県の事情がございます」と。
これほど気骨のある官僚は見たことがない―。彼が赴任する先々でこんな評判が立っていった。
沖縄県知事として、大阪に家族を残し赴任する際。彼は家族へしたためた一枚の色紙を手渡している。
色紙には「断」の一文字が書かれていた。
それは、家族との別れの決断の意味の「断」。そして、沖縄県民の命を背負う覚悟を固めた決断の「断」の意味だったといわれている。
野球選手、チームの主将として。官僚として、知事として。そして夫、父として…。
「覚悟して参りましたよ」。沖縄に赴任し、地元の新聞社へ着任あいさつに来た島田の言葉に、当時の記者は、彼の死の決意の固さを思い知らされたという。だが、記者はこうも証言する。「いささかも悲壮感を伴わぬ冷静そのもののような態度を私はどうしても忘れることができない」と。
後に沖縄県知事となる故・大田昌秀は少年兵時代に知事の島田と出会い、その人物像について、「行政官として本当に尊敬すべき、本物の人物じゃないかと思います」と述懐している。
「君たちは生き延びて沖縄を再建してほしい。死んではいけない。生きろ…」
沖縄戦を生き抜いた人たちは、島田が遺した最期のこの言葉を代々受け継いできた。
その魂を決して風化させてはならない…と。
=後編へ続く
(戸津井康之)