9月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から64 百四歳の人
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
『六甲』という短歌誌がある。
創刊は昭和八年というから90年近くになる伝統ある歌誌だ。兵庫県では最も古いのではないだろうか。そこに五年ほど前から「湯気の向こうから」のタイトルで随想を連載させていただいている。
その8月号に「百四歳」と題して書いたものを、理由があって転載する。多少の修正を加えて。
わたしの知人の最高齢は竹本忠雄さんとおっしゃる男性。最近もお元気な声で電話をくださったのだが、今年頂いた年賀状には「百四歳になりました」とご自分の字で書かれていた。
長年実業の世界で生きてきた人である。いまだに数字に明るく、人名などの固有名詞もスッと出てくる。話の接ぎ穂で「なんせ、後期高齢者ですよってになあ」などとユーモアのセンスも抜群だ。
近頃では百歳を超える人が珍しくはないが、それは女性がほとんどであって竹本さんのように男性では稀だ。
百歳になる時、市から「記念品を届けたいが、ご本人は対応できるか」という意味の問い合わせが書面であったという。竹本さん、何項目かの問い合わせにご自分で書き込んで返信したとのこと。バカにするなよという気持ちだったのだろう。
わたしが初めてお会いしたのは2009年だったが、その時すでに92歳。
地域情報誌の取材でインタビューしたのだが、その頭脳明晰ぶりに恐れ入った。
戦前、西宮市鳴尾にあった川西航空機に勤め、有名な戦闘機「紫電改」の試作係長として従事。昭和17年には姫路製作所に出向し指導にあたる。
ところが、そこで米軍の空襲に遭い、九死に一生を得ておられる。
「昭和20年6月22日のことでした。休憩時間に壁際に座って煙草を吸いよったら一トン爆弾に吹っ飛ばされて、隣に座ってた仲間が死にましたんや。この空襲では、工員74人が死にました」と、強運の人でもある。
その紫電改だが、加西市の旧日本海軍鶉野飛行場跡で実物大模型が展示され、その記念式典が行われた。2019年6月9日のこと。
「紫電改で空中戦を戦い犠牲になった多くの若者の命の重みを感じてほしい」との願いで制作されたもの。
その日の夕方、テレビニュースでその式典の模様が流れるのを何気なく見ていたわたしはアッと声が出た。そこに竹本さんの姿があったからである。招待されたのだろう、きちんとした正装だった。もちろん当時を直接知る最高齢者だ。
その竹本さん、以前お会いした時、「まだまだよおけやることがおまんねん」と言いながら、当面の仕事は、会社を整理して跡地にマンションを建てることだと言っておられた。
「相続対策しとこ思いましてな。相続が争続になったらあきまへんよってに」
そのマンションがこのほど立派に完成した。
計画したことは実行されるのだ。
やっぱり、この人にこそ似合う、わたしが敬愛した詩人、杉山平一氏の詩、「いま」。
もうおそい ということは
人生にはないのだ
おくれて
行列のうしろに立ったのに
ふと 気がつくと
うしろにもう行列が続いている
終わりはいつも はじまりである
人生にあるのは
いつも 今である
今だ
コロナが収束したら、また会いに行こう。そして病気がちのわたしを励ましてもらおう。
以上だが、この原稿を印刷所に送ったその日に、なんと、この竹本さんの訃報が入ってきたのである。まったく予期しないことだったから最初は自分の耳を疑った。お年を考えれば十分にあり得ることなのだが、その偶然に一瞬虚脱した。
聞けば、眠るように穏やかな旅立ちだったとのこと。なすことすべてを成し終えての安堵だったのだろうか。
だけど、こんなふうに逝ってしまわれて、わたしは一体どうしたらいいのだ。
竹本さん、約束したではないですか。おっしゃってたではないですか。西宮市最高齢どころか、ギネスブック掲載を目指ざすと。
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。西宮芸術文化協会会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)ほか。