6月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から ㊾ ああ宮崎修二朗先生
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
これまで宮崎修二朗氏のことを宮崎“翁”と書いてきた。しかし今回は“先生”と書かせていただく。
この人に出会わなければわたしの人生はどんなものになっていたのだろうか。きっと嫌な人間になって淋しい人生を歩んでいたに違いない。
あるところで「文芸とは名利を求めるためのものではありません」との言葉に接し、わたしはこの人に教えを乞おうと思い決めたのだった。それまでのわたしは、学歴にコンプレックスを持ち、それ故に自己顕示欲が強く、つまらぬ人生を歩んでいたのだった。以来、宮崎先生の押しかけ弟子になって三十数年になる。万分の一でも近づけたかどうかわからないが、「先生のお陰さまで」という気持ちは強い。
その宮崎先生が、この四月一日にお亡くなりになった。98歳だった。
つい最近まで「今村さん、困ったもんです。ぼく、百歳まで生きそうです」とおっしゃっていた先生である。歳に不満はないとはいえ、やはりわたしには辛いものがある。胸の中に空いた穴は大きかった。これまではお会いする度に何かを教えられてきた。質問には、いつも明確に答えてくださった。しかしこれからはもう何も尋ねることができないのである。教わることが叶わないのである。その晩年にもほぼ月に一度はお会いして薫染を受け、わたしの人生に大きな影響を与えて続けてくださっていたのだった。
本誌「KOBECCO」にわたしが連載を持たせて頂いたのは2002年だった。もう18年にもなる。その間に、先生に関することをどれほど書いただろうか。5年余続けた、先生をニュースソースにした「触媒のうた」をはじめとして、何度も何度も取り上げてきた。汲めども尽きない井戸のように。実はこの3月号にも「大岡信氏の書状」と題して書いたばかりだった。その冒頭。
《数年前になる。宮崎修二朗翁が一万冊に及ぶ蔵書をすべて処分されたのは。わたしは少なからぬ衝撃を受けたのだが済んでしまったことは致し方ない。ただ、本よりも資料の類が惜しいと思った。処分されたのは本だけではなかった。たくさんの文人からの書簡も含まれていた。本については、今ではネットによって大抵のものは入手可能だ。しかし個人的書簡の再入手はほぼ絶望。
ただし、わたしはそれより前に、翁から多くの文人書簡を託されている。兵庫県文化の父と呼ばれる富田砕花師の書簡は三百通を超える。他にも田辺聖子や杉本苑子、竹中郁など著名文人のものが百通では納まらない。ところがだ。》
と、このあと大岡信氏の巻紙状の書状の不思議な行方のことを書いた。
そのことを思いながらまた、宮崎先生を偲んで先生宛の書簡類を出してみている。
その中から二通紹介しよう。
一通目は歌人川田順氏からのもの。
消印は昭和31年1月31日。当然だが色は昔色に変色している。
拝啓 高著 文学の旅・兵庫県 一巻入手、早速拝読致し、くはしい御研究でまことによき学問いたしました、小生にも時々触れて頂き恐れ入ります。殊に翠渓前田純孝に就いて御書きなされた数行は心に沁みました、現歌壇で翠渓を知る人の稀有なる為一層うれしく存じます、
君おもふに、おもふに君に遠ざかる
生野越えては 播磨広原
小生愛誦の一首を思ひ浮べました 順
文中「文学の旅・兵庫県」は昭和30年発行の処女出版本のこと。この時先生、若干33歳だ。比して川田順は73歳。親子以上の年齢差がある。川田は佐佐木信綱門下の歌人としてすでに名を成しており、歌会始の選者や「新古今集」研究家としても活躍。朝日文化賞など、受賞歴も多く、さらに住友の重役という実業家でもあった人。「老いらくの恋」のことには触れないでおく。
このハガキ文を読むと、宮崎先生の著書がどれほどのものだったかがよくわかるというもの。
次の一枚は田辺聖子さんからのもの。阪神淡路大震災直後のハガキである。消印は95年3月25日。流麗な毛筆文字だ。
御たより拝受、おかわりなく お元気のよし
安心致しました。如何かとご様子案じながら おたずねも致さず お許し下さい、徳山(静子)さんもお元気で災厄にあわれず、ホントによかった、よかった、これからも細く長く、いきましょうね、
「細く長くいきましょうね」と書かれている。お二人ともご長命だったが、聖子さんは昨年お亡くなりになり、そしてこの度の宮崎先生である。わたしは大切な人を相次いでなくしてしまった。
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)ほか。