5月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から ㊽ 大洲からの手紙
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
愛媛県大洲市にお住いの、中山サチ子さんと交流ができたのは、2012年のこと。
きっかけは、その年に97歳でお亡くなりになった、わたしが大尊敬する詩人、杉山平一氏に関してのことから。
サチ子さんは第二次大戦中、女子挺身隊員として杉山氏の父親が経営する「尼崎精工」で働いたことがある。「尼崎精工」は往時三千人の従業員がいたという弱電気メーカー。
以下、サチ子さんから頂いた便りの一部。
《私は戦争中、大洲高女三年生の時、尼崎の工場へ学徒動員で行き、高射砲の弾丸作りをして働いていました。その時の会社(戦時中軍需工場になっていた)の専務さんが杉山平一氏でした。わずか八ヶ月位で空襲により焼け野原になり大洲へ帰り、三ヶ月位で終戦になりました。》
興味深い手紙だが、わたしは、その後の文に大いに驚いた。
《工場で楽しかったのは、杉山氏の、詩についての講義。》なんということか。あの戦時中に、である。しかも終戦間際の厳しい時に、女子挺身隊員相手に軍需工場で詩の講義。これは考えられない、と思ったが、あの杉山氏ならあり得るか、とも思わせられる。しかしこのことは杉山氏の著書のどこにも書かれていない、少なくともわたしが読んだ範囲では。なぜだろう。あの頭脳明晰な杉山氏が忘れるわけがない。本にはならずとも、あちこちに書かれた膨大なエッセイなどの中に残されているのだろうか。このことはご生前にお聞きしたいものだった。どんなお気持ちでそんなことをされたのか。ただし、神戸新聞に書かれた「わが心の自叙伝」の中にはこんな記述がある。
《淡路、香住、竜野、御津などの兵庫県内のほか、福井と、四国の池田、大洲の若い女性たちが挺身隊として機械作業についた。なかでも大洲の挺身隊は、女学校だったが、隊伍整々、行儀の美しいことがいまでも心に残っている。》
この行儀の美しい女学生の一人がサチ子さんだったわけだ。
サチ子さんはその後、何十年もしてから、杉山平一氏の著書を知ることになり、縁が戻る。
「書いたものは残る。いつ、どこで、だれが読むか知れない」ということである。
そのサチ子さんとはわたし、その後もしばらく文通をさせていただいていたが、いつしか途絶えていた。そこで今回、拙著『完本 コーヒーカップの耳』の出版を機にこの本をお送りしてみた。90歳近いご高齢になっておられるが、お元気だろうか、と。
しばらくして返事が届いた。ところが、手紙を書いた人はサチ子さんご本人ではなく、娘さんだった。一字一字、刻むように丁寧に書かれていて、いかにも誠実な人の筆跡だ。
《(略)母は昨年の夏以来、病気と怪我で入院を繰り返し、記憶力と認知力が一気に落ちてしまいました。
退院後、元気ではあるのですが、聴力と視力の低下が著しく、介護なしの生活が難しい状況です。せっかくの今村さんのご本も拝読することができません。
でも、わたしが丁寧に今村さんや杉山平一さんの話をすると、少しずつ記憶がよみがえってきました。
そして、長い間、『コーヒーカップの耳』の表紙をじ~っと見つめて、一言、「うれしい」とつぶやきました。
自分のことを思い出し、そのうえご著書まで送ってくださる今村さんのやさしいお気持ちを感じたのだと思います。
その晩、母の寝室をのぞくと、ご本を枕元に置いて眠っていました。すやすやと眠る口元が、わずかに微笑んでいるように見え、わたしもうれしくなりました。と同時に、母はわたしが感心するほどの文学を愛する読書家でしたので、どんなにか「自分の目で読みたい」のだろう、という彼女の思いを感じ、少し切なくなりました。
これから、母に少しずつ読み聞かせをしていくつもりです。
一昨日、冒頭の「へその緒」と「お母さ~ん」を読んで聞かせると、「なつかしい…、そういう話はなつかしいなあ」と言いました。今思いつく限りの彼女なりの感想です。
本当にありがとうございました。
季節の変わり目の折、どうぞお体ご自愛くださいませ。
母と共に、心より感謝を込めて。》
こんなお手紙をいただくと、お贈りした甲斐があるというものです。
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)ほか。