2011年
9月号

居留地に新たな息吹を|大丸神戸店|神戸旧居留地ものがたり

カテゴリ:神戸, 経済人

大丸神戸店長 澤田 太郎さん

保存するだけじゃない 活用する旧居留地

―大丸神戸店は、旧居留地38番館(当時の名称は「LIVE LAB WEST」)を24年前にオープンしたのを皮切りに、本館周辺でブランド・ショップを展開してきました。今では全国的に有名なスポット・旧居留地の中心になっていますが、ここに至った経緯をお話し下さい。
澤田 38番館オープンの頃、私はまだ20代で紳士服売り場を担当していました。後になって、資料などを読み起こして知ったところをお話しさせていただきます。
 当時の店長は、元々神戸っ子だった長沢昭さんです。博多大丸社長から本社人事の役員に就任されたものの、「どうしても神戸に赴任したい」と店長として戻って来られました。その当時、三宮と元町間には大きなエリア格差があり、元町は活性化の必要がありました。そこで、ヤングマインド路線でまず店内の改装を考えたそうです。本館1階にと考え、「アフタヌーン・ティー」のサザビーさんと交渉を始めましたが、サザビーが当時日本で展開していたブランド、フランスの「アニエス・ベー」が路面店限定を主張して一旦は交渉決裂。その後、サザビー社長が神戸に来られた際に38番館を見て、「ここならアニエス・ベーも喜んで出店するだろう」と、改めて話が進みオープンに至りました。
 長沢店長も旧居留地の素晴らしさは分かっていても、「単に保存するだけでいいのか?」と活用の方法は模索している状況でした。38番館の活用方法を見て「これはいけるのでは…」とひらめいたようです。

―それをきっかけに、次々と計画が持ち上がったわけですね。
澤田 38番館が3月にオープン、続いてその年の7月には自社物件の駐車場を利用しようというプランが出てきたようです。

―神戸での新しい成功は全国の大丸でも話題になったのでしょうね。同じような手法をとっている店舗はあるのですか。
澤田 心斎橋店では商店街で閉店した店舗や、御堂筋沿いで銀行が統合して空いたスペースなどを利用した展開はやっていますね。京都店でも一部始めているようです。

―現在は本館周辺で60ブランドがショップ展開する24カ所もの建物があるようですが、ブランドの選別はどのようにしているのですか。
澤田 最優先しているのは、日本初、あるいは西日本初のブランドです。かつ、流行だけを追いかけるのではなく、センスが良くて、神戸のお客さんに合うブランドを基準にしています。今後は洋服や雑貨に限らず、食や、リビングなどのライフスタイルショップの誘致にもチャレンジしたいと思っています。

―本館については?
澤田 当店は地下がターミナル駅とつながっていませんから、1階が勝負です。神戸大丸1階は行けば「新しいものがある」「センスのいいものがある」と言っていただけるものを発信していこうとしています。1階フロアがこれほど賑わっている百貨店は全国どこにもないと思っています。

神戸観光のトレンドの一つ「カフェラでお茶を」

―阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた2年後、新にグランドオープンしましたが、戦略的にも変化したのですか。
澤田 1987年の全面リフレッシュの路線を踏襲しています。当時の森店長をはじめ従業員全員が知恵を絞り、1997年に復興グランドオープンすることができました。中でもコリドールにオープンした「カフェラ」が象徴的で、1987年の38番館オープンと同じくらいのインパクトがあったと思います。これが旧居留地全体のイメージアップにつながりました。うれしいことに、カフェラでお茶を飲み、写真を撮るのが神戸観光のトレンドになっているようです。

―南京町に門ができ、地下鉄海岸線も開通しましたが、相乗効果はありましたか。
澤田 元町東地域商店街連合会で南京町さんとはお付き合いさせていただいています。例えば春節祭では、大丸前を交通規制して龍舞や中国獅子舞を披露していただいています。地下鉄海岸線は、西方面からのお客さまには、便利になったという声をいただいています。

―澤田店長も神戸っ子ですが、神戸にはどんな思いをお持ちですか。
澤田 小学生の頃、神戸に関する副読本があり、いかに神戸が素晴らしいかが書かれていました。神戸っ子は子どもの頃から神戸のよさを刷り込まれていますから皆、神戸を自慢に思っています。

―ずっと神戸なんですね。
澤田 昨年1年間は東京におりましたが、それ以外はずっと神戸です。震災後の1998年から3年間は、(財)阪神淡路産業復興推進機構へ出向していました。その経験は今でも役に立っています。行政のメカニズムを勉強できましたし、異業種の方と知り合いになれ、いまだに情報交換できるお付き合いをさせていただいています。

―旧居留地連絡協議会が目指す街づくりとは?
澤田 協議会には5つの専門委員会がありまして、様々な活動をしています。例えば街づくりや景観のガイドラインなども協議しています。過度に派手な看板などはNGですし、コンビニも他所とはちょっと違うオシャレな造りになっています。素敵なことです。条例ではなく、紳士協定で規律が保たれているのですから、珍しいことでしょうね。行政にも協力いただき、今回も歩道を拡張していただいたのもありがたいことだと思います。

日本初、西日本初、そして、世界初を神戸に!

―今後の大丸神戸店は、どういう方向を目指しますか。
澤田 東京で1年間過ごしたお蔭で、神戸に対して首都圏の皆さんが非常に良いイメージを持っておられることに気付きました。また、旧居留地の街並みや大丸神戸店の夕景など、東京のどこを探してもこれほど美しい百貨店はないと思いました。神戸が持つ良いイメージと、旧居留地や大丸神戸店のイメージをシンクロさせていくというのが、私が今一番やりたいと思っていることです。具体的には、オシャレでセンスの良い店づくり、空間づくりです。
 もう一つは、神戸のお客さまに支持していただける新しいものを引っ張ってくることです。24年前の38番館は、東京渋谷の人気ブランドショップが関西初で神戸にやってきました。続いてオープンした、エンポリオ・アルマーニやプラダの路面店は日本初で神戸にやってきました。今年8月に旧居留地ブロック31にフルオープンした「ブルネロ クチネリ」は「ライフスタイルコレクション」としての展開は世界初です。毎年というわけにはいきませんが、日本初、西日本初、世界初を神戸に持ってきたいですね。
 次に店内環境、つまりビジュアルをもっと良くしたいというのも希望です。

―旧居留地と本館の使い分けは?
澤田 もちろん、本館あっての旧居留地です。バランスを取りながら、相乗効果を出さなくてはいけませんから本館にも力を注いでいきます。まず、地下食料品売り場は来年春にリニューアルを予定しています。欧米百貨店のグロッサリー売り場なども参考にしながら、「さすが、神戸大丸」と言っていただけるような神戸らしい品揃えと店内環境を造ろうと計画しています。

―今後とも旧居留地のパワーの源になっていただきたいです。
インタビュー 本誌・森岡一孝

澤田 太郎(さわだ たろう)

株式会社 大丸松坂屋百貨店執行役員
大丸神戸店長
1983年、滋賀大学経済学部卒業。同年、株式会社大丸入社。
2004年、神戸店営業企画CS推進室販売促進部長。
2007年、神戸店営業企画推進部長。同年、神戸店営業統括店次長。
2010年、株式会社大丸松坂屋百貨店本社経営企画室部長。
2011年、株式会社大丸松坂屋百貨店大丸神戸店長。同年、株式会社大丸松坂屋百貨店執行役員大丸神戸店長(現)。

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