8月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から㊴ 田辺聖子さん
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
田辺聖子さんがお亡くなりになった。
今回は、田辺さんにかこつけての自己宣伝めいた文章になってしまうかもしれませんが老人の戯言とお許しください。
田辺さんのことについては、本誌2014年六月号から八月号まで三回にわたって書き、後には神戸新聞総合出版センターより出版した拙著『触媒のうた』にも再掲した。宮崎修二朗翁からお聞きした取っておきの秘話である。
ところがついに、わたしは田辺さんとはお会いせずじまいだった。
「一度お会いになっておかれたらどうですか?」と言って下さる人もあったが、わたしには遠慮があった。超人気作家の忙しさを慮ってである。お仕事の邪魔をしてはいけないと。
実は、わたしの最初の著書『コーヒーカップの耳』(2001年・編集工房ノア刊)の帯文は田辺さんから頂いたもの。わたしにとっても縁のある人だったのだ。よくもまあ厚かましくもお願いできたものである。しかし田辺さんは快く受けて下さった。無名の者の本に、国民的作家の田辺さんが帯文を提供するなどということは異例のことであろう。
無謀とも思えるお願いをしたのにはわけがある。先ず、『コーヒーカップの耳』の草稿を宮崎修二朗翁の仲介であらかじめ読んでいただいていた。すると田辺さんは思いがけず、身に余る言葉を添えてお便りを下さったのである。それでわたしは虫のいいことを考えたのだ。そのお言葉の一部を帯文に使わせていただければと。
お願いした手紙への返事には流れるような毛筆文字でこう書いて下さっている。
《お手紙拝受、御詩集御発刊とのこと、おめでとうございます。
きっとたくさんの方々に美しい感動を与えて下さることでしょう。
つたない文がお役に立ちますれば、どのようにもお使い下さいませ。
御身お大切にお過し下さい。》
後に文化勲章を受けられるような作家からこのようなお便りをいただいて、わたしは舞い上がる思いをしたのだった。その帯文。
ふき出したり、涙ぐんだり
そしてことばがきれい。
たのしい時間を過しました。
通りすがりに書棚に手をのばして
つい読んでしまいます。
田辺聖子
田辺さんにはいろんなジャンルの作品があるが、わたしが特に好きなものは評伝文学である。
俳句の杉田久女を描いた『花衣ぬぐやまつわる』(女流文学賞)。小林一茶の『ひねくれ一茶』(吉川英治文学賞)。そして、川柳の岸本水府を描いた『道頓堀の雨に別れて以来なり』(泉鏡花文学賞、読売文学賞)など。いずれもドラマチックで読みごたえがあった。中でも『道頓堀の雨に別れて以来なり』は分厚い上中下の三冊。そのことを川柳作家の時実新子さんへの手紙に記すと次のような返事が来た。
《そうですか、田辺さんの道頓堀を。水府さんは六大家の中ではぴか一の句のうまいお方でした。あの長々しい物語を、よくもまあ!と敬服します。私は中途で一旦投げ出してしまい、田辺さんのご不興を買ってしまったのです。》
新子さん、ご自分の失点を隠さずに吐露しているが、そのころの彼女は猛烈に忙しくしていて致し方なかったのだろう。当然、のちには読了したのであろうが。
と、そんな本が並んでいる本棚を眺めていて目に留まったのが、田辺さんの芥川賞受賞作『感傷旅行』。
わたしは元々それほど熱心な読書家ではなかった。いや、読まないというわけではない。小学生のころ、あの村上春樹も通ったという西宮図書館に江戸川乱歩をちょこちょこ借りに行った覚えはある。しかし入りびたりになったということはない。
その後、父が早く死に、高校中退という学歴にコンプレックスを抱いたわたしは、それなら読書をして教養を身に着けようと思ったのが始まりだった。
その『感傷旅行』(「感傷旅行」の初出本ではない)はそんなころに買ったもの。昭和39年の発行である。
何十年ぶりかに手に取ってみた。しかし当時二十歳そこそこのわたしが、この芥川賞受賞作を理解できたのだろうか?甚だ疑問である。
扉に載っている田辺さんの写真が、当然ながらお若い。
さあ、わたしも二十歳の昔に帰ってもう一度読み直してみよう。
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)ほか。