6月号
みんなの医療社会学 第十八回
わが国の公的医療保険制度の歴史
─日本で公的医療保険制度がはじまったのはいつですか。
深森 国の制度としての近代的な医療保険のはじまりはちょうど90年前の1922年(大正11)に制定された健康保険法(註)です。当時の日本は第一次世界大戦の好景気に沸く一方で、生産力を上げるには労働者の健康を守ることが必要と考えられるようになったのです。この制度のモデルになったのはドイツの労働者保険でした。対象となったのは労働者本人のみで、加入率は国民のわずか3%でした。当時、農林水産業に従事する人々は多かったのですが、加入対象ではありませんでした。そこで、これらに従事する人々の健康を守るために、1938年(昭和13)に国民健康保険法(旧国保法)が定められました。これは任意加入で、地域住民が組合員となった組合組織が運営主体でした。また、同一業種を組合員とする特別国保組合もありました。
─戦後はどうなりましたか。
深森 敗戦後の混乱の中、保険料の滞納や医療資材の欠乏などにより多くの国保組合が休止を余儀なくされ、無保険者が3千万人にものぼり、大きな社会問題となりました。そんな中、国民皆保険制度の実現を目指すべく1958年(昭和33)に国民健康保険法が改正されて新国保法となり、運営主体が原則市町村に移り強制的加入が定められました。一方で復興により労働環境も変化して労働者が加入する被用者保険も充足し、医療保険の加入率が9割に達すると国民皆保険達成の世論が高まって政治的な課題となっていきます。そして今から51年前の1961年(昭和36)、世界でも類をみない国民皆保険がついに達成されました。
─なぜ日本で国民皆保険が実現できたのでしょう。
深森 まず、日本の社会的構造に合っていたことが挙げられます。会社勤めの人の共同体、いわゆる「カイシャ」と、農林水産業や地域に定着して仕事をする人たちの共同体、いわゆる「ムラ」があり、この2つの共同体をもとにして保険集団を設定したので、皆保険制度が定着したと考えられています。
─国民皆保険制度が実現して、医療環境はどう変化しましたか。
深森 誰でもいつでも医療機関にかかれるようになり、国民の受診機会が広がりました。また、医療機関も急速に整備されました。給付内容も改善され公的医療保険自体も充実していきました。その結果、日本は世界トップクラスの長寿健康国になっていきます。一方で医療費は増大し、1961年から78年まで毎年のように2桁の伸び率で増加していきましたが、高度経済成長の時代で国民総所得も年平均約15%増加していったので、当時はさほど問題になりませんでした。
─高度成長から高齢化社会へと以降する中で、公的医療保険制度はどう変化しましたか。
深森 1973年(昭和49)にオイルショックがおこりますが、奇しくもその頃が社会保障の充実のピークで、以降、制度の見直しに迫られていきます。1973年(昭和48)に無料化した老人医療費は1983年(昭和58)に一部負担が開始、その翌年には健康保険法が大改正され医療費の高騰を抑制します。平成に入っても2000年(平成12)には介護保険制度の導入、その後も健康保険法改正や後期高齢者医療制度導入など、医療保険財政の安定化をはかるために毎年のように法改正を重ね、保険料値上げや自己負担の増加がおこなわれています。以上のような歴史を経て、被用者保険と地域保険が複雑で微妙なバランスを保ちながら、今日まで皆保険制度が続いているのです。
─今後、皆保険制度を維持するために必要なことは何ですか。
深森 財政の安定化はもちろんですが、はっきりと理念が示されていないことも問題です。たとえば介護保険制度であれば、「尊厳ある自立の支援」という理念があり、制度を維持する際に課題が出てきた場合でも、この理念に立ち戻って対策を練ることが出来ます。しかし、公的医療保障制度には理念がありません。現在のように医療費増大による財政圧迫を解消するという課題が出た場合に立ち戻る理念がないために、いつも財源ばかりに焦点が当てられることになり、その場しのぎの対応になってしまっていると考えます。国民皆保険制度は世界に誇るすばらしい制度です。インドネシアでは実現を目指していますが難しいようですし、アメリカでもオバマ大統領が断念してしまいました。わが国ではそれを半世紀続けています。だからこそ私たちがどうありたいかを考えて理念を定め、将来へ向けて今の制度を見直してみる必要があるのではないでしょうか。
(註)施行は1927年(昭和2)
深森史子 先生
兵庫県医師会医政研究委員会委員
ふかもり眼科院長