3月号
廣野ゴルフ倶楽部の 戦後復興に尽力した乾豊彦氏
1947(昭和22)年9月、当時の川崎重工社長・鋳谷正輔氏から乾豊彦氏宛てに一通の手紙が届いた。「廣野のことで相談があるから、当社までご足労願いたい」。この時、乾氏は40歳になったばかり。倶楽部の役員ではなかったが、養父が廣野ゴルフ倶楽部の創設者の一人でもあり、呼び出しに応じた。
会合での鋳谷氏からの相談内容の一つ目は、「廣野を農地に開放せよと地元から強い要望があること」。これに関しては、阻止することで全員の意見の一致をみた。二つ目は、「クラブハウスを韓国人学校の校舎としてしばらく貸してほしいと言われている」。GHQからの強い要請を受けていた鋳谷氏は役員会の空気が貸与に傾くことを願っていた。しかし、ここで最年少の乾氏が「農地解放を阻止し、廣野を再開しようとしているにもかかわらず、クラブハウスを貸与するのは矛盾している」と声を上げる。この言葉が一同の意見を代表していた。三つめは「代表取締役の後任者を決めてほしい」。鋳谷氏は出席者を次々と指名していくが、全員が辞退。末席の乾氏に「校舎問題でも反対の筆頭だし、若いのだから君が引き受けるべきだよ」と。こうして、「廣野ゴルフ倶楽部再興」という大命が下された。
早速、廣野の実地踏査に向かった乾氏は、その変わりように目を疑った。フェアウエーは一面芋畑化し、18番ホールに向けて一直線の滑走路が走る。橋が落ち、5番ホールから向こうへは渡れない。クラブハウスのガラスは一枚残らず割れ、不法占拠の小屋がそこかしこに建てられている。「とにかく、これ以上の荒廃から守らなくてはならない」。
折しも、新円切り替え1年目。世相を反映し、資金集めは難航する。何とか会員一人当たり5千円程度拠出の約束を取り付け、復興工事を始めてみたものの、これだけでは到底足りるものではない。
ここで、戦後の関西経済をけん引した経営者としての乾氏の手腕がものを言った。今では当たり前になっている法人会員制を考案し、復興資金を集めたのだ。苦労しながらも、当時の有力会社10社余りの入会を得て、1948(昭和23)年6月、9ホールを再開させた。同年9月に廣野ゴルフ倶楽部理事長に就き、翌年、18ホール全面開場までこぎ着ける。その後、ゴルフは急激に盛んになり、旧メンバーのほとんどが顔をそろえ、新入会員も増大した。乾氏は、会員に負担をかけることなく、プレーを邪魔することなく5年の歳月をかけ、「アリソンの図面通りに復元する」という信念を貫いた。こうして、乾氏の身を挺した尽力とリーダーシップの下、廣野ゴルフ倶楽部は名門として名を馳せ、華やかな時代へと向かっていった。