12月号
連載 神戸秘話 ㉔(最終回) 原点は六甲山の自然 植物学者 岡村はた
文・瀬戸本 淳 (建築家)
これまで神戸高校とそのルーツとなった学校に関係した人物について綴ってきたが、神戸高校の兄弟校ともいえる兵庫高校の系譜にも優秀な人物は多い。本来ならそのあたりも書きたいのだが、今回が最終回なので、両校とゆかりの深い女性植物学者、岡村はたを紹介しよう。
大正12年(1923)に岡村家の次女として御影で生誕。生家は嘉納治五郎の道場の南側にあったという。3歳の頃から登山好きの父に連れられ六甲山に登り、小学校入学前後に引っ越してきた家の番地は当時の六甲の最高峰の標高と同じ932の1で、庭には六甲山の山砂*でロックガーデンをつくったというから面白い。
小学校の頃には気圧計で標高を測り、草花の写生を覚え、学校から帰ると玄関に置いてあった捕虫網を持って虫取りに出かけていた。県立第一神戸女学校(現在の神戸高校)に入る頃になると一人で六甲の谷という谷を歩き回るようになる。蝶やトンボを「彼女」、甲虫やハチを「彼」とよんで「わたしの昆虫記」を書く一風変わった生徒だったようで、昭和13年(1938)の阪神大水害時の際はその数日後、リュックにノミと弁当箱を入れて岩石採集に行き、水晶を拾ったというから逞しい。自由な校風の中で、大好きな昆虫採集や自然探索に打ち込んだ。やがて奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大)へ。勉強熱は高まる一方で、父の趣味とも合っていたため読みたい専門書もすべて入手でき、採取会にも積極的に参加して充実の日々を送る。卒業後は兵庫県立第四高等女学校へ就職、戦時中に教師となった。
ところが昭和20年(1945)6月5日、自宅が空襲で全焼し、コツコツ採集してきた標本、小学4年生から書きためてきた観察記などすべてが灰になってしまう。さらに追い打ちをかけるように同年9月、研究の最大の理解者だった父が亡くなった。「昆虫学者を夢みていた私は死んだ」と、戦争とともに夢は消えた。
しかし、新しい時代とともに、新しい人生が待っていた。勤務先の県四が神戸二中と合併して兵庫高校となり、竹類の生態研究の第一人者、室井綽と同僚に。植物研究へ重心を移した岡村はスケッチなどで室井の研究を支え、『学校園の経営と校外指導』『図解植物観察事典』など室井との共著を多く世に出した。
教育現場で日々奮闘する中でも岡村の向学心は衰えることなく、週1度京都大学へ講義を聴きに出向き、斑入り植物の研究に没頭。なんと約千種の斑入り植物を対象にその成因を分類し、その成果を博士論文にまとめ京大に提出、昭和51年(1976)に農学博士となった。
兵庫高校退職後には聖和大学(現在の関西学院大学教育学部)教授として教鞭を執った。また、正倉院宝物竹材材質調査や兵庫県立人と自然の博物館の設立に関わるなど、多方面で活躍、私生活では弟妹の親代わりとなり、弟2人を医学博士にまで育て上げた。
何事にも一所懸命。大好きな生物研究に邁進し、奮励努力で大きな果実を実らせた。岡村のそんな実直な生き方はまさに、六甲に根を下ろす大樹のようだ。
「神戸秘話」を長らくご覧いただきありがとうございました。応援して下さった多くの方々に感謝いたしております。
*現在は瀬戸内海国立公園に指定されているため、六甲山の土砂採取は禁止されている
※敬称略
※岡村はた『教職五十年精一杯』、室井綽・岡村はた『竹とささ』、岡村はた、橋本光政、室井綽ほか『図解植物観察事典』などを参考にしました
岡村はた
植物学者
大正12年(1923)神戸市生まれ。県立第一神戸女学校(現在の神戸高校)、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大)卒。兵庫高校の教師に長年勤めながら研究を重ね、昭和51年(1976)に京都大学より農学の博士号を取得。昭和56年(1981)より聖和大学(現在の関西学院大学教育学部)教授。専門分野は竹・笹の形態や生態、植物の斑入り。『図解植物観察事典』や『竹とささ』、『ほんとの植物観察』(いずれも共著)など、植物研究の指針となる著書多数。平成23年(2011)没。
瀬戸本 淳(せともと じゅん)
株式会社瀬戸本淳建築研究室 代表取締役
1947年、神戸生まれ。一級建築士・APECアーキテクト。神戸大学工学部建築学科卒業後、1977年に瀬戸本淳建築研究室を開設。以来、住まいを中心に、世良美術館・月光園鴻朧館など、様々な建築を手がけている。神戸市建築文化賞、兵庫県さわやか街づくり賞、神戸市文化活動功労賞、兵庫県まちづくり功労表彰、姫路市都市景観賞、西宮市都市景観賞、国土交通大臣表彰、黄綬褒章などを受賞