12月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から ㉛ 海尻巌 Ⅰ
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
久しぶりに、本当に久しぶりに兵庫県文苑の最長老、宮崎修二朗翁96歳のお部屋をお訪ねした。病後初めてである。
「お会いしたかった」と言ってくださった。何度か電話やお便りをいただいてもいた。施設の職員さんも「心配しておられましたよ」と声をかけて下さった。年が明ければ97歳になられる翁にご心配をおかけしていたのだ。たしか一月二日がお誕生日だったはず。しかし頭脳はまだまだ明晰。
ところがこの日、翁は少々体調が思わしくなく、ベッドに横臥してのお話し。わたしはそばの椅子にベッドと平行するように腰かけてノートを取る。
問わず語りに話してくださったのは、但馬出石の詩人、海尻巌(1919年~1995年)のこと。晩年は宝塚に在住したが、一時神戸に住んだことも。健在なら99歳だから、宮崎翁の三歳上ということになる。ほぼ同世代だったんですね。
決して一般に知られた詩人ではなかったが、兵庫の詩人として記憶に残すべき人であろう。
おだやかで優しくて、純朴な人だったという。靴は12文(28センチ)である。大きな体をかがめるようにして、尊大な態度は一切なかったと。
長い詩歴のあった人だが、生涯に出した詩集は『海尻巌詩集』と『続・海尻巌詩集』の二冊のみ。その二冊目のあとがきにこんな言葉がある。
《詩に目覚めてから六十数年それにしても貧しき果実、恥をしのんで出版する。》
含羞の人でもあったようだ。
「前にもお話ししたことがあると思いますが、いいお人でした。竹中(郁)さんの唯一のお弟子さんでした。戦後の食糧難の時代のことですがね、海尻さんは竹中さんの家を訪ねるんです。さぞお困りだろうと思ってお米を持って。すると竹中さんは、そのお米を食べるんではなく、「ちょっと行こう」と言って闇市へぶら下げて行き“やきもの”に替えたというんです。あの時代にそんなことができる竹中さんというのは、やっぱり偉い人だったんですね。お米が家に余ってたというわけではないですからね」
貧しい農家出身の海尻と、都会の裕福な家庭に育った竹中との見事なコントラストを描くエピソードだ。
その時のことを書いた海尻の詩がある。
あの日米をかついでお宅に伺うと/そんなにせんでも/飢え死にはしないよと云われ/さあこれで掘り出しものを捜しにゆこうとせかれ/私は呆然としてそのまま米をかついでお伴した
─ 略 ─
先生はせとものばかり眼をつけられ/これを李朝 これは古伊万里だとか云われてご機嫌だった/私にはそのときただのうす汚れたせとものとしか眼にうつらなかった
(「私の財産 ─竹中郁先生に」部分)
竹中には、やきものについての次のような詩がある。
─三個/これは打ちぐすり/一つは櫛目/もうひとつは何というのか/その三つ。小松川の翁が包んでくれた/なにかことばをそえてくれたが それは判らずじまい/それでもお互い喜び合って 取引きしたのを覚えている
あの那覇市外/壺屋村/みはるかす丘の上にきれいに並んだ家のむれ/あすこもきっと/変っただろう/ぼくは抱瓶三つとも/火事で砕けて失った。
(「抱瓶」)
この詩に対する宮崎翁の解説。
《火事とは、作者が蒙った戦災のことである。もう再び帰ってこない、亡び去った美しいものへの哀惜の歌、その中にはひとことの、あからさまな怒りのことばもない。なまなましい呪詛のことばも。だが、美しいものを打ち砕いた手に対するかぎりない怒りが、この優しい一篇の詩の中に流れている。》
(『やきものの旅』保育社・カラーブックス)
海尻の話からは少し離れたが、竹中の「美しいもの」への心情を理解するため、敢えての引用。
宮崎翁の話である。
「海尻さんは、わずか十三歳で奉公に出るんですが、峠までお母さんが送ってくれたというんです。振り返って見たら、いつまでも手を振っていたと。後には農協の偉いさんになられますが、ご苦労をなさったんです」。
海尻の故郷は、旧出石郡但東町薬王寺である。出石はわたしの家内の故郷でもあり、何度もその辺りを車で走っている。
つづく
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)ほか。