2013年
9月号
井伏鱒二の書簡 著者蔵

触媒のうた 31

カテゴリ:文化・芸術・音楽

―宮崎修二朗翁の話をもとに―

出石アカル
題字 ・ 六車明峰

《だいせんじがけだらなよさ》
この呪文のような歌詞を、むかし、カルメン・マキという歌手が哀愁を帯びた声で歌っていた。
井伏鱒二訳詩の「勸酒」をもじってこのように作詞した寺山修司の着眼に感じ入ったことを覚えている。
「勸酒」はこうだ。

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

元詩は『唐詩選』の中の于武陵「勸酒」。
《勸君金屈巵、滿酌不須辭、花發多風雨、人生足別離》
この井伏訳を、中国文学者の高島俊男さんは「いや何べんくりかえして読んでも、すばらしいものですね」と絶賛しておられる。
ところがです。
高島さんの『お言葉ですが…⑦漢字語源の筋違い』から引くと、
―いまから八年ほど前、東京静嘉堂文庫の土屋泰男さんが『漢文教室』一七七号(一九九四・二)に発表なさった〈井伏鱒二『厄除け詩集』の「訳詩」について〉を見た時には、それはもう仰天した。井伏訳は独創ではなかったのだ。―
以下、経緯は『お言葉ですが…』に詳しいが、井伏の名訳といわれていた『厄除け詩集』の中の「譯詩」は剽窃と言われても仕方のないほどのものとの結論。ただし、井伏自らは独創とは言っていない。『田園記』にはこう書いていると。
〈私は父の本箱から、和綴のノートブックを取出して、かねて私の愛誦してゐたことのある漢詩が翻訳してあるのを発見した。それは誰が翻訳したのか訳者の名前は書いてなかったが、こまかい字で訳文だけが記されてあった。きつと父が参考書から抜書きしたものだらう。漢籍に心得のある人には珍しくない翻訳かもしれないが、ここにすこしばかりそれを抜萃して、その原文も写す。但、訳文には私が少し手を入れる。〉
これに高島氏は、―こうはあっても人は、これは井伏鱒二一流の韜晦で、まったく当人が訳したものに相違ない、と受けとった。当人もそう受けとられるのを承知で、否定しなかった。(略)これでは読者が、井伏鱒二が訳したもの、と思うのは当然であった。―と書いておられる。
ここで高島俊男さんについて少し。
相生市出身の中国文学者でエッセイスト。『漢字と日本人』(2001年・文春新書)がベストセラーに。『週刊文春』の連載エッセイ「お言葉ですが…」が人気を博し、11年間続いたが突然中止を申し渡される。
実はこの高島さん、わたしの店「輪」にも宮崎翁と共に何度か見えて下さっている。その時の話で、先の『週刊文春』の突然の休載を「ぼくには何故だか全くわからん」と仰っていた。でもわたし、その直前に書いておられた連載を読ませて頂いて思ったのは、これはある筋からの圧力だろうということだった。高島氏は歯に衣着せぬ書きぶりで、書かれる方は結構応えます。しかも相手は大きな組織ではなかったか。
話がそれた。
井伏鱒二の訳詩のタネ本を最初に見つけたのが宮崎翁だったのだ。そのゆくたて―。
「昭和60年ごろのことでした。講演で佐用町に行った時にね、ある人から『こんなものがうちにあるのですが』と見せられたのが『臼挽歌』(潜魚庵)という本でした。これを見て驚きました。井伏の『厄除け詩集』とそっくりそのままの訳詩が並んでいたんですよ」
宮崎翁は井伏氏逝去後、この『臼挽歌』のコピーを大岡信氏へ、更に乞われて井伏鱒二研究家の寺横武夫滋賀大学教授に送られた。寺横教授はそれを論文に発表され、研究者の間に周知されることとなり、井伏の訳にはタネ本があったということが定説になったのである。
高島氏はこう書く。
―今『臼挽歌』原本とてらしあわせてみると、出来のいいのは全部抜かれた、の感をうける。さすがに眼識はするどい。一例をあげれば、孟浩然の「送朱大入秦」、原詩は「遊人五陵去、寶劍直千金、分手脱相贈、平生一片心」。これを潜魚庵は「今度貴様はお江戸へ行きやる、おれの刀は千兩道具、是を進せる餞別に、つねの氣像を是しやとおもや」と臼挽歌にしている。(略)井伏鱒二が「田園記」で発表したのは、「コンドキサマハオ江戸ヘユキヤル、オレガカタナハ千兩ドウグ、コレヲシンゼルセンベツニ、ツネノ氣性ハコレヂヤトオモエ」。(略)―
井伏さん、見事に引いておられます。
ただし、井伏の名誉のためにちょっと。
「勸酒」について、高島氏はこう言っておられる。
―潜魚庵訳をふまえていることはたしかだが、各句ともよく原訳から離れている。離れたから成功したのである。ただしこれだけきれいに離れ得たものはほかにはない。―


井伏鱒二の書簡 著者蔵

■出石アカル(いずし・あかる)

一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。

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