6月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から85 山下栄市という人
ひさしぶりに目にした名前。
「山下栄市」さん。
初めて知ったのは1985年だから38年もの昔だ。
『六甲』という短歌誌がある。昭和8年創刊の兵庫県では最も伝統ある歌誌といっていいだろう。
そこにわたしは2016年より随想を連載させてもらっている。このほど4月号(通巻1036号だ!)を読んでいて目に留まったのが、この「山下栄市」という名前。
あるページに山本武雄(六甲元代表)の歌集『朴の花』(六甲短歌会・1979年刊)からの五首が余ったページを埋めるように載っていた。そして、
《題字富田砕花 装画山下栄市 素描竹中郁》とあった。
富田砕花も竹中郁も有名人だ。山本武雄も兵庫県では名前の知れた歌人だった。
この際、山本さんについて触れておこう。但し、わたしはお会いしたことはない。宮崎修二朗翁から何度も人格者だったとお聞きしていた。翁の著書『ひょうご歌ごよみ』(兵庫県書店協同組合・1984年刊)には次のように紹介されている。
《『六甲』を三十年にわたり多忙な家業の中で独力編集しつづけた。
個人雑誌かと見まがう主宰者専横独善の歌俳誌もある中に、編集者の一首の自作も載らない月があった。投稿者作品の優先主義が、己の発表の場をついにはなくすのだ。(略)
その自己規制には恐らく氏の敬慕する富田砕花の“詩士”的な生きのさまへの志が貫いていたのだろう。》
先に、富田砕花、竹中郁は有名人だと書いた。そして山本武雄も前記の通りの人。ところが、山下栄市さんはそうではなかった、と思う。だがわたしは、どこかでその名を見たことがあると思った。そして思い出したのが『宮っ子』という西宮市が発行している情報誌である。『神戸っ子』と似た名前だが、『宮っ子』の方が歴史は浅い。といっても1979年創刊だからけっこう伝統はある。
その『宮っ子』の59号、1985年4月号に、後にわたしが薫染を受けることになる宮崎修二朗翁(「翁」と書いたが、当時はまだ60歳代とお若い)が、初心者のわたしの詩を「文学の小道」という見開きのページに大きく取り上げて下さったことがある。自分の名前があんなに大きな活字になったのは初めてのことだった。
詩は二篇が紹介されていて、そのうちの「川」という詩に絵がつけられている。
時代背景は終戦間もないころ。あちらの町の子どもたちと、こちらの子どもたちが川を挟んで諍いをする内容だがテーマは重いもの。
山下さんの絵は、土手に立つ三人の子どもの挑戦的な姿。いかにも終戦直後の貧しい子どもたちだ。
その欄は、西宮に所縁のある文芸作品を取り上げて宮崎翁が解説するもので、人間味あふれる文章が魅力的だった。
第一回が田辺聖子さんで1983年5月号だった。1986年4月号の33回をもって終了しているのだが、谷崎潤一郎や井上靖、野坂昭如などの有名作家に混じって、わたしのような無名人も何人か登場している。いかにも宮崎翁らしいなさり方だ。
そのバックナンバーをわたしはすべて保存しているが、そのいずれにも山下栄市さんの挿絵が載っている。さすが宮崎翁のご指名があった(と思われる)人の絵だ。どれもが内容に即していて、登場人物の心の機微が見事に描かれている。
気になってわたしは、「山下栄市」さんをネットで調べてみた。しかし一切浮上して来ない。ということはプロの画家さんではなかったのか。しかしこれだけの絵を描ける人だ。ますます気になる。どんな人だったのだろう。宮崎翁がご健在なら即座にわかるのだが、それはもう叶わない。
そこで『六甲』の現代表、田岡弘子さんに電話で訊ねてみた。だがやはり、ご存知ではなかった。
ことのついでに、『朴の花』に載っている山下さんの装画の写真を送って頂いたが、「文学の小道」の挿絵とはまた趣が違っている。朴の花が大きく描かれていて、清らかだ。
ところで山下栄市さん、あなたは今どうしていらっしゃいますでしょうか。お元気でしたらご一報いただけませんでしょうか?
六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。西宮芸術文化協会会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)ほか。