6月号
プレイバック1983 青木 功 日本オープン初優勝
1983年9月29日~10月2日、六甲国際ゴルフ倶楽部中・東コースで「第48回日本オープンゴルフ選手権」が開催された。コース改造・メンテナンスを行い準備万端で開幕したこの大会。青木功の歴史に残る大逆転劇を抜きには語れない。
当時、尾崎将司、中嶋常幸と共に「ビッグスリー」と評されていた青木は、1978年、イギリスで開催された「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝、82年の「全米オープン」ではジャック・ニクラウスと優勝をかけて死闘を繰り広げ2位…既に海外でも活躍し、絶頂期を迎えていた。ところが、日本オープンでは勝てない。何度も最終日に崩れる。「なんでや?」とゴルファーの間では七不思議のように語られていた。そんな中で迎えた大会だった。
第1日・第2日目と安定したプレーを続けてきたT・ゲールは、第3日目も70をマーク、通算9アンダーの207。青木は71とトップのゲールとは5打差で2位、優勝はほぼ絶望視されていた。最終日、必死の形相でゲールを追い上げる青木、追われるゲールは優勝を意識し過ぎたのかOBを出すなどショットが乱れ始める。一方、「またか…」という声を尻目に着実なゴルフ展開をした青木は、17番ピンそば30センチにつけバーディーを奪う。迎えたプレーオフ、2ホール目の18番でゲールは2番アイアンで第2打を右へ曲げ、右バンカーへ。青木の第2打は4番ウッドで軽いフェード球、カップ左5メートルにピタリと落とすスーパーショット。5メートルのバーディパットは外したものの、本来パッティングやアプローチが得意な青木は余裕で勝利の1メートルを沈め、遂に念願の初タイトルを大逆転で獲得したのだった。
この大会後、何度か青木は倶楽部を訪れた。プレーしてきた世界中のコースが頭の中にきっちり叩き込まれているという青木は、「このコースはすごいスケールのコースになると思うよ。ただ、少し我々の感性とグリーンの傾斜が逆のところがあるよ。海外のコースを見てきてごらん」と話した。自身の経験をもとにした様々なアドバイスの根底にあったのは、人間の習性を理解して設計されているのが一流のゴルフコースだという思いだった。
世界基準のゴルフ設計理論に基づいたコースとは、地形に合い、自然に溶け込んでいる、ゴルファーに優しく楽しめるコースだ。青木は、六甲国際ゴルフ倶楽部の〝理想のコースづくり〟に大きなヒントを与えてくれた一人だった。
青木 功(あおき いさお)
1964年にプロ入りし、1971年の「関東プロ」で初優勝を飾る。1978年からは4年連続賞金王。同時に海外でも活躍を始め、1978年に英国開催の「ワールドマッチプレー」で優勝。1980年の「全米オープン」ではジャック・ニクラウスと争って2位