3月号
日本の ゴルフ近代化と C・H・アリソン
1883年、英国ランカシャー州プレストンで生まれたチャールズ・ヒュー・アリソンは5歳のころからゴルフに熱中し、腕前はスクラッチプレーヤーだったといわれるほど。オックスフォード大学時代にはケンブリッジ大学との混合代表チームのメンバーとして米国に遠征し6勝無敗の成績を残すなど、さまざまな偉業を達成している。
造園学部を卒業後、ロンドン郊外バッキンガムシャーにあったストーク・ポージス・ゴルフクラブでセクレタリーをしていたが、同学部の先輩にあたり、当時すでに設計家として超多忙な日々を送っていたハリー・コルトの助手として働くことになる。1918年から22年にかけて、コルトのデザインを基に中心的存在となって完成させた、世界ランク1位と称されるパイン・バレー・ゴルフ・クラブに携わったことがアリソンを設計家として大きく飛躍させた。そして、COLT.ALISON&MORRISON Ltd.を設立し、コルトのパ―トナーとしてサニングデール、セントアンドリュースのエデンコースなど、英国・米国で多くの名コース設計を手掛けた。自然を生かしながら、華麗で過酷なラインと戦略的な18ホールが、世界のゴルフコースに誕生することになる。
そのころ日本でもようやく本格的なコースを造ろうという声が高まっていた。東京ゴルフ倶楽部の朝霞移転にあたり、本場の一流設計家招聘を打診したところ、「この人を置いて他にいない」と紹介されたのがコルトだった。しかし既に高齢で、元来船旅を嫌ったといわれるコルトは信頼するアリソンを日本に派遣する。
来日したアリソンには日本中から引き合いが殺到した。神戸へやって来たアリソンは廣野ゴルフコースの設計に携わることになる。
1931(昭和6)年1月、寒風吹きすさぶ廣野を訪れ、いつもの長靴姿で池や谷の曲折変化を実地で確認したアリソン。インスピレーションが湧き上がってきたのだろう、その感激ぶりは大変なものだったという。早速、神戸に戻り、オリエンタルホテルの一室にこもり切りで3日間、後世に残る18ホールの素晴らしいレイアウトを書き上げた。
約3カ月の滞在だったが、大谷光明、赤星兄弟はもとより、後に「西の上田治、東の井上誠一」と称される設計家に影響を与えたアリソンは、日本のゴルフコース、そして日本のゴルフの近代化に大きな足跡を残したといえるだろう。