6月号
第十六回 兵庫ゆかりの伝説浮世絵
中右 瑛
忠臣蔵異聞 公金持ち逃げの悪家老・大野九郎兵衛の忠臣奇策説
播州赤穂浅野藩(五万三千石)には四人の家老がいた。筆頭城内家老・大石内蔵助、国家老・藤井又左衛門、江戸家老・安井彦左衛門、財政担当の城内家老・大野九郎兵衛(おおのくろべえ)。しかし、大石を除く三人の家老は討ち入りには参加しなかった。
大野九郎兵衛は財政通で父の代から藩財政を一手に取り仕切っていた実力者。積極的な塩田開発で赤字の赤穂藩の財政を立て直し、藩札の発行、また治水工事・植林に力を入れ、小さな藩のインフラ等を豊かにした功労者である。各藩からは羨望の的であった。お家断絶が決まった後、赤穂藩に厳しい片手落ち判決に二百人余りの藩士たちからは色々な意見が続出した。殉死か、お家再興か、あるいは幕府に一矢報いる討ち入りか。大石と大野はことごとく意見が対立。大野は城を円満に明け渡し、弟の浅野大学を跡目にしてお家再興を目指すことを提案。血気盛んな若者たちは、城を枕に殉死を提案、大石の意見は目まぐるしく変わり一時、殉死に傾いたこともあった。また、藩に残された公金配分を巡り紛糾した。大野は禄高に比例した配分を…大石は若い下層武士に手厚い分配を…と主張。結局、大野の主張通り藩士たちには禄高で配分、城は円満に明け渡した。大野は合理的、常識的な意見であった。
大野は藩民に迷惑がかからぬために藩札(藩内だけ通用の札でこれは幕府から禁止されていた)を全て引き取り、貸付金は徴収した。
その直後、大野九郎兵衛と息子の郡右衛門(ぐんえもん)ら一家は姿を消した。大野は公金を持ち逃げしたとの汚名を受ける。しかし藩の公金はすでに底をついていたのだが、本当に公金を持ち出したのか。さて?大野一家はどこに行ったのだろうか?
お芝居『仮名手本忠臣蔵』では大野は斧九太夫(おのくだゆう・仮名)という名の悪役で、吉良方のスパイとして登場。「七段目・祇園一力茶屋」では、大星(大石の仮名)の密書を床下から盗み見ようとして、殺害される。息子の郡右衛門は「五段目・山崎街道」では盗賊に落ちぶれた悪浪人・斧定九郎となって撃ち殺される。大野は極悪人というイメージが定着している。大野が悪者にされるほど大石は光り輝くのである。が、大野は俗説にあるように本当に悪人だったのか。
しかしながら、これには別説がある。公金を持ち逃げして行方不明となった、大野には重要な役目があったというのだ。それは山形に潜伏して、第二の討ち手として計画されていた。大石とは密約を交わしていたという。
その密約とは、大石が吉良邸に討ち入ったが、万一、吉良上野介の首を討ち損ねた場合、どうするか。吉良は江戸を離れ、米沢(山形県)の上杉家に逃げるに違いない(上杉家の当主は吉良上野介の実子)。その道筋に大野一派を待機させて、討ち取ろうというもの。米沢の県境に板谷峠(山形県)がある。付近の民家に大野一派が隠れ住んで見張りを続ける、という計画だ。赤穂を出て行方不明の一派は、この板谷峠付近で百姓になって潜伏していたという。
元禄15年12月15日未明、赤穂藩士が討ち入り、吉良の首を仕留めた。という一報がその直後、潜伏先の大野に届いた。「してやったり!」大野一同は陰の苦労が報いられたことに安堵した。「我々の役目は終わった。切腹して果てよう」板谷峠で全員切腹したという。この峠には十六基の石碑が祀られている。近くの百姓たちが、大野らに同情して石碑を立てたという。この奇策説が真実ならば、極悪人どころか、大野こそ陰の大忠臣であったのである。しかしその真相は不明。
淡河(神戸市北区)十輪寺に九郎兵衛の手紙や九郎兵衛の弟の真筆が残されており、そこには京・黒谷墓地に九郎兵衛が葬られていることが記されているという。
―この奇策説は『歴史読本』昭和56年12月「臆病の悪役九郎兵衛・神坂次郎著」を参考にした―
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。
1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。