2月号
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連載 Vol.10 六甲山の父|A.H.グルームの足跡
六甲山に注ぐ愛情
かくしてアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)の奮闘で日本初のゴルフ場は1901年に4ホールで誕生、1903年には9ホールに拡張し神戸ゴルフ倶楽部の運営となったが、その後すぐ有野村長の大西太吉と山林の賃貸契約を結んで敷地を拡大、翌年9月ここにインコースを増設し念願の18ホールが実現した。
これらのホールにはそれぞれウィットに富んだ愛称がつけられたが、中にはグルームに関するネーミングも。例えば1番ホール「Dumpie」はグルームが愛飲したスコッチウイスキーのこと。ここでホールインワンを達成するとこのウイスキーが1箱贈られることになっていた。ちなみこのコースで初のホールインワンはグルーム没後の1934年だが、賞品はウイスキーだったのだろうか。なおスコッチに「Dumpie」という銘柄は現存しておらず、幻の銘酒とでも言えよう。11番の「Doctor’s Nob」はグルームの親友、医師のトーニクラフト(Thomas C.Thornicraft)の大きな頭(nob)にちなんでいるが、彼はよくこの谷まで散策に来ていたそうだ。15番は「Groom’s Putt」。これはグルームがパター一本で勝負を持ちかけたことから命名されたが、実はここが一番距離が長いコースだというからお茶目だ。
ところで1904年には、冬になると六甲山上でプレーできなくなるとグルームの友人のロビンソン(W.J.Robioson)が日本で二番目のゴルフ場、横屋ゴルフ場を住吉川の河口近くに開設している。実はこの敷地は、旧居留地返還後のKR&ACの活動用地にとグルームが長男の宮崎亀次郎名義で1889年に取得していた土地だ。
さて、グルームやその仲間の尽力により別荘やゴルフ場ができて六甲山はすっかり外国人の保養やレジャーの場となったが、その頃彼らはどのようにして神戸の市街から山上に通ったのだろうか。当時の記録によれば、現在の摩耶ケーブル駅にほど近い五毛(ごもう)天神まで人力車でやって来て、ここで山駕籠に乗り替えたという。その駕籠が通う小径はグルームが出資して近隣の人々に依頼し切り拓いたもので、駕籠屋さんも仕事の合間にその普請にあたった。グルームは駕籠屋にならないかと自らが勧めた横田与吉が運営する横田駕店を愛顧し、六甲山が開発されるにつれ競合が出現すると与吉に旗や法被を贈って応援したが、そこにはここが元祖とわかるようにと「MOTOKAGOYA」と記してあったという。
グルームははげ山だった六甲山の緑化を行政に働きかけるだけでなく、朝夕の散歩の際はのこぎりやはさみを手にして伸び過ぎた枝を切り落とし、生い茂る雑草を抜き、紙くずを拾い集めた。また、邪魔な石は取り除き、路面を蒲鉾状にして排水を良くし、白い砂を撒いて夜でも歩きやすいようにするなど、道路の整備にも熱心だった。
ある日、山頂の茶店の店先にごみを見つけたグルームは、お店のおばあさんに「それは何ですか?下には五毛(ごもう)村がありますが、六甲に*芥(ごもく)村はありません!」と怒り、それできれいに掃き清めたら「感心、感心」と上機嫌で小遣いを渡したという。
グルームは公共性という視点も持ちつつ、六甲山に惜しみなく愛情と資金を注ぎ、〝市民の山〟の基礎を築いたのであった。
* 芥=ごみ
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五毛天神から六甲山上へ通った山駕籠
イラスト/米田 明夫