2月号
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連載 教えて 多田先生! 素粒子物理学者の宇宙物理学教室|〜第20回〜
地平線問題
自然界で最も大きな存在が宇宙、そして最も小さな存在が素粒子と考えられている。素粒子を研究することで、宇宙のはじまり、人間の存在を解明する―― 日本の誇りをかけて、その最前線で日々研究に打ち込む素粒子物理学者・多田将先生。この連載で謎に包まれた宇宙について多田先生に教えていただきます。さあ、授業のはじまりです!
高エネルギー加速器研究機構の多田と申します。
まず最初に、お詫びと訂正から。本稿を書くために前々回の原稿を確認していたら、そこに間違いを発見しました。第18回(2024年12月号)の内容は「地平線問題」ではなく、「平坦性問題」です(68頁後ろから6行目)。今回の内容が「地平線問題」です。申し訳ございません。謹んで訂正申し上げます。
ということで、改めて、「地平線問題」についてお話ししましょう。
その第18回でもお話ししましたように、「地平線」の広さは、その曲率によって決まります。例えば目の高さが1.7mの人が地球上に立ったとき、その「地平線」の広さは、4.7kmとなります。いっぽう同じ人でも月の上だと2.4kmになります。この違いは、地球と月の大きさの違いによるものです。つまり、大きな空間のほうが「地平線」が広いのです。現在の宇宙では、第18回でお話ししたように、観測できないほど遠くまで平坦、つまり「地平線」ははるか遠くまで広がっていますが、ビッグバン宇宙論が正しくて時間とともに広がっていると考えた場合、かつて宇宙はもっと小さかった、つまり「地平線」の範囲はもっと狭くて、それがどんどん広がっていって、現在の「地平線」になった、と考えられます。初期のころはほんの短い距離のところまでしか見えなくて、近くのものしか認識できなかったのに、だんだん遠くまで見渡せるようになっていったことになります。
ところで、我々の地球は、大きさこそ変わりませんが、移動手段の発達によって、はるか遠く、地球の裏側にまで短時間で行くことが可能になりました。それまで行ったことのない場所は未知の世界で、なにがあるのかわからない領域でした。欧州から見て、その南側にあるアフリカは、かつて得体の知れない「暗黒大陸」だったのです。欧州の人がアフリカに足を踏み入れたあとでも、次は大西洋を渡った「新大陸」は大航海時代までは「得体の知れない場所」でした。そして、その「互いに情報をやりとりしない」状態から、急に往き来できるようになると、その文明格差が大きく開いていたために、いっぽうがもういっぽうを征服するような悲劇も起きました。このように、「交流」がない地域間では、さまざまなことが大きく異なっていくのが当然ではあるのです。
では、宇宙のことに話を戻すと、「地平線」が広がって、それまで「暗黒の地」だったところが見渡せるようになったとき、その場所はそれまで認識していたところと大きく違っていたのでしょうか。ここで、第14回で採り上げた「宇宙背景輻射」をもう一度思い出してみましょう。これこそがビッグバン宇宙論が正しいという証拠の最たるものでしたよね。そしてこれは、全天で均一なものでした。実はごくわずかだけ「むら」があり、それが銀河の素となるのですが、それは本当にごくわずかで、ほとんど均一と言っていいものです。「地平線の向こう」にあって、互いに相手が「暗黒」であったのに、なぜか完璧な「文化交流」があったかのように均一なのです。ここでいう「均一」とは温度(粒子のエネルギー密度の平均値であることは第13回でお話しした通りです)のことで、これが均一であるには、粒子同士がお互いに「交流し合う」、つまり衝突し合って、エネルギーの交換をする必要があります。
現代ではそうではありませんが、昭和の時代の風呂は、焚いた直後は湯の温度にかなり偏りがあって、表面は熱くて触れられないくらいなのに、底のほうはぬるかったりしたものでした。ですから、風呂場には櫂が備え付けられていて、最初に入るときには、その櫂でよくかき混ぜて湯温を均一にしてから入ったものです。このとき、湯の温度が均一になる仕組みは、櫂を動かすことによって、湯を構成する水分子が動き、熱い、つまりエネルギーの高い水分子と、冷たい、つまりエネルギーの低い水分子とが衝突し、互いにエネルギーを交換し合って、均一なエネルギー(温度)となるものです。これが粒子同士の「交流」です。この交流は、櫂を動かす速度以上では進まないのです。
宇宙の温度を均一にするには、やはりこの粒子同士の「交流」が必要です。そして、粒子の速度にせよ、櫂の速度にせよ、いずれも光の速度は超えられないので、その「交流」が広がる速度は、最高でも光の速度です。時間が経てばそのうち均一にはなります-そのうち「地平線」が広がっていくように。しかし、現在の観測では、「地平線」が広がって、「暗黒」の状態からようやく見通せる状態になったかと思えば、その領域ではすでに「交流」は終わっていて、均一になってしまっている、という不思議な現象が見られるのです。いったい誰が、宇宙の広がりよりも速く宇宙をかき混ぜたのでしょうか?
これが、第三の問題、「地平線問題」です。
前々回の「平坦性問題」、前回の「モノポール問題」とあわせ、この三つの問題は、単純なビッグバン理論では説明のつかないものでした。では、ビッグバン理論は間違っているのでしょうか。いいえ、そうではありません。ある驚くべきメカニズムを導入することで、これらをまとめて解決することができるのです。それを、次回、お話ししましょう。
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第14回でも掲載した、COBEによる宇宙背景輻射の全天測定結果を画像化したもの。図では「むら」が大きいように見えるが、これはごく小さな差を強調しているため。実際にはほとんど均一。
Courtesy NASA/JPL-Caltech
PROFILE
多田 将 (ただ しょう)
1970年、大阪府生まれ。京都大学理学研究科博士課程修了。理学博士。京都大学化学研究所非常勤講師を経て、現在、高エネルギー加速器研究機構・素粒子原子核研究所、准教授。加速器を用いたニュートリノの研究を行う。著書に『すごい実験 高校生にもわかる素粒子物理の最前線』『すごい宇宙講義』『宇宙のはじまり』『ミリタリーテクノロジーの物理学〈核兵器〉』『ニュートリノ もっとも身近で、もっとも謎の物質』(すべてイースト・プレス)がある。