1月号
有馬温泉歴史人物帖 〜其の拾〜 鍋屋多右衛門(なべやたえもん)1778~1847
明けましておめでとうございます。さて、有馬の正月と言えば入初式。毎年1月2日におこなわれる伝統の祭礼で、有馬の恩人である行基と仁西の像に初湯をかけて差し上げます。三恩人のうち秀吉がおりませんが、入初式の起源は江戸時代初期なので、豊臣家の存在をガン無視していた江戸幕府に忖度したんでしょうな。
入初式が始まった頃の有馬温泉は「有馬千軒」といわれるほど賑わっておりました。しかし、長い江戸時代において有馬は二度ほど大ピンチに追い込まれ、そのたびに救世主が現れます。その一つが本連載其の伍でご案内の通り、香川修徳の『一本堂薬選』の影響で客足が鈍ったことで、柘植龍洲による『温泉論』での反論と1817年の泉源改修で持ち直します。
で、ようやく活気が戻った!と思ったら、全国的な災難の影響をもろに受けて、温泉というより有馬の街自体の存亡の危機に!その災難とは、天保4年の1833年から4年続いた天保の大飢饉でございます。
有馬は田畑がなく自前で米や野菜を調達できないので、食料確保は困難をきわめます。しかも全国的な危機ゆえに湯治客が激減、来訪者相手に生計を立ててきた有馬では休業はざら、大坂や池田の商人からの借財を返せずに十二坊のうち9つの経営者が入れ替わったそうで、世帯数も半減してしまいます。
この状況を何とかしないと…と有馬の庄屋たちが救済を求めたのが、有馬・船坂・唐櫃の三村の庄屋総代の鍋屋多右衛門という人物。問題が起こればすぐさま駕籠を飛ばして馳せ参じ対応したことから「ハヤカゴ」の異名をとり、温厚篤実無私無欲、誰もが頼りにしたそうです。
で、具体的に何をどうしたかの記録がなく詳しいことはわかりませんが、多右衛門さんは有馬のリーダーたちと協力して救済援助に奔走、有馬の人々は塗炭の苦しみから脱することができたと伝えられています。
ちなみに、この飢饉がきっかけで勃発した1837年の大塩平八郎の乱の際、平八郎の伯父の大西与五郎が有馬潜伏中に捕らえられたという説があります。
さて、天保の前の文政の頃、多右衛門さんの地元の唐櫃村は運送の拠点で、北播磨の酒米はここから六甲を越えて灘へ運ばれました。その経路の唐櫃道では安全を祈願し、西国三十三所にちなんだ石像観音が安置されましたが、その1つ、多右衛門さんが寄進した善光寺式の弥陀三尊像は現存し、この石仏群の中では珍しく御影石製で出色の出来だとか。唐櫃道は明治になって外国人に「シュラインロード」とよばれ、現在は人気のハイキングコースになっています。たまには温泉通いの道すがら、もう一人の有馬の恩人、多右衛門さんゆかりの仏様に手を合わせてみてはいかがでしょうか?
※資料により「太右ヱ門」等とも記されていますが、本稿では「多右衛門」で統一します。なお、イラストの肖像は想像です。