8月号
映画をかんがえる | vol.29 | 井筒 和幸
敗戦直後の瀬戸内海を舞台にした海賊アクション、『犬死にせしもの』の苦難続きの撮影がアップしたのは、1986年の2月頃だったか。海の上で時代モノなんか撮るもんじゃないと思ったものだ。船の周り四方は海原でも、その先の沿岸の景色すべては現代だから、そこに建つリゾートホテルや白亜のペンションやデカい広告塔が画面に映り込まないように撮るだけで一苦労だった。今なら、CG合成で邪魔物はビルでも何でも消してしまえる。後年に撮る『ヒーローショー』(2010年)のラストシーンでは、背景に写る富士山を撮ってみたら何か低く見えたので、CG処理で五合目から下の裾野を足して、山を高く上げたこともある。何でも描ける時代になった。映画がそれでいいのか悪いのかは知らない。ついでに言えば、60年代の傑作、『ブリット』(68年)で、タフな刑事に扮したS・マックィーンが自ら運転するマスタングGTと逃走する悪党の黒いダッジのカーチェィスは忘れられない。ダッジが猛スピードで正面に構えたカメラすれすれに疾走したショットは、思わず腰が浮く感じだった。隣り席の彼女も思わず頭ごと横に逸らし、悲鳴まで上げていた。あの頃の正真正銘の実写のスリル感が、虚像でしかないCG画面で同じように体感できるかはちょっと疑問だが。
撮影が終わっても肩の荷が全部下りたわけではなく、東京に戻ると、次の作業が待っていた。現像したラッシュフィルムを試写すると、あのカット、このカット、自信をもって堂々と繋ぎたいカットはほとんどなく、役者の演技が現場の時と違ってどれもこれもつまらなく見えた。つまらない画面を切って捨てたら繋ぐものがなくなってしまうぞ、どうすりゃいいんだ。ボクは二、三日、編集場に行く気がしなかった。やれやれ、とにかく繋ごう。切って繋いでテンポをつけよう。ボクはNGカットから台詞の一言や芝居の一部でも拾い出して繋いでくれと先輩編集者に命じた。「でも、この男の右目線の切り返しで相手の女も右目線じゃ繋がらんよ。客が混乱する」と制されたが、「NGの右目線でいいです。その表情の方がリアルやし、客は判る!」と意地を張った。「小津安二郎の真似は無理だよ」と皮肉を返された。真似なんかしてもいないのに。
渋谷で『セント・エルモス・ファイアー』(86年)という青春モノが封切られていた。ハリウッドの新進俳優らが揃った、“大学は出たけれど”がテーマの群像劇。ついでに目線の繋ぎ方も確かめたかったが、観ているうちにそんなことはどうでもよくなり、彼ら彼女らそれぞれの思いに引っぱり込まれた。それぞれの思いの行き違いが面白かった。『天国の門』(81年)で莫大な製作費を使い、興行で大赤字を出して映画会社を倒産させ、何年も干されていた鬼才マイケル・チミノらしい新作、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(86年)も観た。ニューヨークのチャイナタウンで繰り広げられる刑事とチャイナマフィアの戦いは新鮮だけど、以前の大作の圧倒感はなかった。ボクもすでに製作費をオーバーさせていたので、春の興行で惨敗したらボクも干されてしまうかなと思った。
編集に七転八倒しながらも、映画だけはよく観た。画面のフェードアウトの仕方や音楽の入り方で見習えるところはないかと思ったからだ。いつの間にか映画をそんな風に観る癖がついていて嫌だった。『ローカル・ヒーロー/夢に生きた男』(86年)という、主演の名前も知らないイギリス映画の試写会にも行った。テキサスの石油会社からスコットランドの石油基地建設のために、その海辺の村一帯の用地買収交渉役で派遣された青年社員が、現地のお金大好き主義の村人たちと付き合ううちに自分の人生も見つめ直すことになる、風刺の効いた話だった。実はこれは『犬死にせしもの』と4月の同時公開で、ボクとしては敵情視察のつもりだったが、我が海賊モノとは異なり面白かった。我が方は題名の通り犬死にして、興行成績もひどいものだった。今も残念でならない。
PROFILE
井筒 和幸
1952年奈良県生まれ。奈良県奈良高等学校在学中から映画製作を開始。8mm映画『オレたちに明日はない』、卒業後に16mm映画『戦争を知らんガキ』を製作。1981年『ガキ帝国』で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降、『みゆき』『二代目はクリスチャン』『犬死にせしもの』『宇宙の法則』『突然炎のごとく』『岸和田少年愚連隊』『のど自慢』『ゲロッパ!』『パッチギ!』など、様々な社会派エンターテイメント作品を作り続けている。映画『無頼』セルDVD発売中。