2月号
⊘ 物語が始まる ⊘THE STORY BEGINS – vol.27 林 英哲さん
新作の小説や映画に新譜…。これら創作物が、漫然とこの世に生まれることはない。いずれも創作者たちが大切に温め蓄えてきたアイデアや知識を駆使し、紡ぎ出された想像力の結晶だ。「新たな物語が始まる瞬間を見てみたい」。そんな好奇心の赴くままに創作秘話を聞きにゆこう。第27回は、太鼓奏者、林英哲(はやし・えいてつ)さん。
文・戸津井 康之
春を告げる和太鼓の音…新たな季節へ歩み出すために
和太鼓演奏の多様性
「コロナ禍がなかなか収束せず、予期しなかったロシアによるウクライナ侵攻など世界情勢は悪い事ばかり起きていますが、それでも、また、春がやって来ます。和太鼓の演奏を聴いて少しでも前向きな気持ちなってもらえれば…」
半世紀以上にわたり、和太鼓の演奏家として国内外で活躍してきた林さんは、今月25日に迫った東大阪市文化創造館大ホール(大阪府東大阪市)でのスペシャルコンサートを前にこう意気込む。
タイトルは「春鼓人宝〜しゅんこ・ひとだから〜」。
そこに込めたメッセージを問うと、「和太鼓は春を告げる音。力強い和太鼓の音で新しい季節の訪れを告げる…。そんな公演にしたいから」と説明してくれた。
ドラムスのように並べた大小の和太鼓を叩くソロ演奏の他、林さんの弟子たちで構成するユニット「英哲風雲の会」のメンバー5人との和太鼓の合奏、そしてスペシャルゲストとしてピアニスト、新垣隆さんを招き、和太鼓とピアノのセッションも披露する。
「新垣さんとはラヴェル作曲の『ボレロ』をセッションする予定です。『ボレロ』は、これまでジャズピアニストの山下洋輔さんらともセッションしてきましたが、新垣さんとはいったいどんな演奏になるかが私自身、今から楽しみなんです。新垣さんはひょうきんな性格で、おそらくみんなを驚かせるようなピアノ演奏を仕掛けてくるでしょう。こちらも新たな和太鼓の奏法などを披露するつもり。一回だけ、その場限りのジャズのような予想できないセッションになるでしょうね…」
まるで、アスリートが試合に挑むような口ぶりで語る。実際、セッションは共演であるが、一方で〝競演〟でもある。「競い合うように互いの演奏で音をぶつけあう覚悟」で臨む。
第二部では自ら作曲した組曲「レオナール われに羽賜べ」を演奏。大太鼓のソロ演奏や息子の年代の英哲風雲の会のメンバーとの合奏など、太鼓を一時間近く叩き続ける舞台を披露する。
「2004年に初演で発表した組曲ですが、その後、何度も作り直してきましたから、これまで誰も聞いたことのない最新のバージョンでの演奏になります」と約20年を費やして辿り着いた最新版に自信を見せる。
音楽と美術
広島県生まれ。中学生の頃、ビートルズに憧れ、バンドを組み、ドラムを叩き始めた。
高校生になると、グラフィック・デザイナーの横尾忠則さんに憧れ、美術家を志し、単身、上京した。
「美術大学を目指していた浪人時代。永六輔さんの深夜のラジオ番組で、佐渡のイベントに横尾さんがゲストとして来ると聞いて、すぐに応募しました」
そのイベントとは、将来、佐渡に職人の大学を創設するために若者を募った活動の場で、これが後の和太鼓集団「佐渡・鬼太鼓座」へとつながる。
「一週間ほど佐渡で合宿していたのですが、結局、横尾さんは来ませんでした。でも、それが和太鼓奏者となるきっかけになるのですからね」と林さんは苦笑しながら振り返った。
本誌でも連載中の横尾さんについて、林さんは「当時の日本の多くの若者にとって横尾さんは憧れの存在でした。横尾さんを目指していたんです。作家、村上龍さんは私と同い年ですが、彼も横尾さんに憧れ、武蔵野美大へ進学したんですよ。彼は作家へ、私は和太鼓奏者の道へ進むのですが」と教えてくれた。
ドラムで音楽経験のあった林さんを中心に1971年、「佐渡・鬼太鼓座」が創設された。当時19歳。林さんは美術から音楽の道へと転身したのだった。
英哲風雲の会とで披露する組曲「レオナール〜」は、画家、藤田嗣治の人生をテーマに作曲した。
「第一次、第二次世界大戦と2回も戦争を経験し、日本を追われるようにして渡仏し、レオナール・フジタとなった藤田さんは当時の西洋の画壇で認められる存在にまで登り詰めた。しかし、彼がどれだけ日本人画家として世界からバッシングされ、つらく孤独な人生を歩んだか…。そんな孤高の人生をイメージして作曲しました」
日本から和太鼓を引っさげ、クラシックの本場・欧米のオーケストラと〝競演〟してきた自身との人生を重ね合わせるようにしながら、林さんは楽曲の過程を説明してくれた。
世界を変えた和太鼓の力
1976年、林さんの所属していたグループは、世界的指揮者の小澤征爾さんが指揮するボストン交響楽団と共演するチャンスを得た。
「リハーサルが始まったとたん、多くの楽団員が和太鼓の音の大きさに顔をゆがめ、あからさまに耳をふさぐ奏者までいました。しかし、本番では初めて和太鼓演奏を聴いた米国の聴衆たちは、スタンディングオベーションで和太鼓の音を受け入れてくれたんです」
その後、北米や欧州などで行った公演会場では、「日系人や黒人、ヒスパニック系などマイノリティーの人たちが涙を流しながら聞いてくれた。白人社会の中で、日本から持ってきた和太鼓の音を響かせている私たちの姿を見て、『私たちも立ち上がりたい』と声を上げたのです。和太鼓の音から、勇気をもらった、と言いながら…」
これまで世界48カ国・地域で和太鼓を演奏してきた。
世界各国の大ホールで、その国を代表する有名オーケストラなどと共演してきた林さんだが、今も忘れられない演奏会がある。
1995年3月。阪神・淡路大震災から約2か月後に、神戸市長田区の公園で和太鼓を並べ、仮設舞台で演じた演奏会だ。
「ジブリアニメの作曲などで知られる久石譲さんが、『被災地に一緒に行ってなにかしたい』と言っていたので彼を誘い、慰問の演奏会を開くことにしたんです。久石さんはシンセサイザーを持って、私は和太鼓を持って駆け付けました」
被災者たちの多くは、「いったい何が始まるのか?」と驚きの目で眺めていたという。
まだ、冬が明けない公園に漂う冷たい風を、和太鼓の大きな音とすさまじい振動が切り裂いた。
林さんが力強く叩き続ける和太鼓から放たれた音が、傷ついた被災者たちの心を鼓舞した。「もう一度、立ち上がれ…」と。
翌年も林さんは慰問の演奏会のために神戸を訪れている。その時に出会った若者がいた。
25日のコンサートでは「英哲風雲の会」から5人が出演するが、その中の二人、上田秀一郎さんと木村優一さんは神戸出身で、創設当時のメンバーだ。
高校の同級生だった上田さん、木村さんの二人は、顧問の先生に誘われ、経験したことのない太鼓部に入部。その直後、震災を体験した。太鼓部では、各地に出向いて、慰問演奏会をひらいた。そのとき、被災者を勇気づける和太鼓の力に改めて感動したという。二人は高校卒業後、神戸を中心としたプロの太鼓グループの結成に参加、太鼓奏者の道を選んだ。その数年後、上田さんは林さんの門を叩き上京、弟子入り志願した〝一番弟子〟だ。
心を鼓舞する不変の音
欧米の豪華なホールに集まったタキシードやドレスで着飾った観客の前での厳かなコンサートがあれば、アフリカ大陸の屋外での公演や、被災地の炊き出しの横で、被災者の前で和太鼓を叩くこともある。
だが、林さんにとって演奏する場は関係ない。
「和太鼓の音には聞く人たちの心を鼓舞する力がある。世界中を回って演奏してきましたが、これは、どの国、民族、宗教に関係なく同じ。国境など関係ない。実は叩いている私自身、全身に力がみなぎってくるのが分かる。だから、衰えを感じることがないんですかね」と笑った。
昨年、アジア文化の保存と創造に貢献した人や団体を顕彰する「福岡アジア文化賞」の大賞に選ばれた。1990年から続く伝統ある賞だが、日本人の大賞受賞は2013年の医師、中村哲さん以来約10年ぶりの快挙だった。
「世界貢献し、アフガニスタンで亡くなった中村さんと同じ賞を受賞できるなんてとても光栄です。長年、和太鼓演奏を続けてきましたが、それが認められ、うれしい。とても励みになります。まだまだ頑張らないといけませんね」
70歳を超えても、新たな役作りや、英哲風雲の会を率いて2時間以上の演奏をこなす体力、技術、精神力は衰えを知らない。
「あと何年、演奏できるでしょうか。ただ、体力が続く限り叩き続けたい…」
体力を維持するために、鍛え抜かれた筋肉は服の上からでも分かる。演奏家としての人生は半世紀を過ぎたが、まだ夢の途上にいる。
Photo.山内城司
林 英哲(はやし えいてつ)
広島県生まれ。11年間のグループ活動後、82年太鼓独奏者として活動を開始。84年初の和太鼓ソリストとしてカーネギー・ホールにデビュー。現代音楽の分野でも前例のない和太鼓ソリストとして国際的に高い評価を得た。00年にはドイツ・ワルトビューネでベルリン・フィルと共演、2万人を超える聴衆を圧倒させた。太鼓独奏者としてロック、ジャズ、現代音楽、民族音楽などの演奏家と共演しながら、かつての日本の伝統にはなかったテクニックと体力を要する大太鼓のソロ奏法の創造、多種多様な太鼓群を用いた独自奏法の創作などジャンルを超越した、まったくオリジナルな太鼓表現を築きあげていく。
97年芸術選奨文部大臣賞を受賞、01年日本伝統文化振興賞を受賞。17年第8回松尾芸能賞の大賞を演奏家では初めて受賞。04年より洗足学園音楽大学の客員教授に就任(15年3月退任)。05年より東京藝術大学で年一回特別講座『劇場芸術論』を実施、15年4月より東京藝術大学客員教授に就任。09年より筑波大学大学院でも年一回特別講座開講。