11月号
兵庫県医師会の「みんなの医療社会学」 第137回
パブリックディプロマシーで国民皆保険制度を守る
─パブリックディプロマシーとは何ですか。
田中 簡単に説明しますと、「市民とのコミュニケーション」でしょうか。大切な事は、普段からコミュニケーションをとって「大切ですよ」と伝えておかなければならない、ということです。そうしないと、有事において市民が判断を誤ってしまうからです。いま、多くの情報であふれかえっていますが、その割に真実の情報はわずかです。
─それは大きな問題ですよね。
田中 民主主義は国民の判断で国が動きます。ですから、国民がしっかり考えるための材料が、あらかじめ提供されてなければいけませんよね。特に医療は非常に大切な課題です。ところが、報道はきわめてステレオタイプで、医療に多面的に精通した報道がとても少なく、本当に大切な事が伝わっていないのではないかという懸念を持っています。
─いま、日本の医療はどのような状況なのでしょうか。
田中 日本の医療費が高騰して大変だという報道があります。しかし、事実は少し違い、著しい高齢化の割に医療費の国家負担は低く抑えられています。GDP比で諸外国と比較すると、近年は高齢化によりOECD諸国平均を上回っているものの、欧米諸国と比べても高い訳ではありません(図1)。
─過去最高の医療費で国家予算が逼迫しているイメージですが、それは意外ですね。
田中 そのように報道されていますから、そう思われるのでしょう。しかし、日本の医療費の国家負担は比較的低コストに抑えられてきた歴史があり、費用対効果では常に世界ランキングの上位できわめて優秀です。このことは、国の負担が低いにもかかわらず国民が十分な医療を受けていたことを示しています。
─なぜそれが可能なのでしょう。
田中 それはひとえに、国民皆保険制度のおかげです。他国は、日本ほど完成された公的保険制度を構築できていないのです。
─皆保険制度は少子高齢化で維持できないのではという意見もありますが。
田中 確かに少子高齢化は一つのマイナス要因ですが、本当の危険因子は違うところにあるんです。それは外圧です。利潤を追求する世界的な巨大製薬企業や外資系の民間保険会は非常に大きな資金力と政治力を有しており、時には国家的な武力を背景に圧力をかけてきます。国民皆保険が崩壊すると、民間保険の市場に置き換わり、保険会社が大きな利益を得ることになるでしょう。このほかにもGAFAなどの巨大IT企業が医療を市場にしようと押し寄せてきていますが、これらも皆保険制度を壊す力となります。
─医師会は国民皆保険を守ると綱領に謳っていますね。
田中 国民皆保険は医師会の既得権だというとんでもない批判がありますが、このロジックは、特に新自由主義者とよばれる人たちが多用してきました。しかし、この論理は悪質であり、間違いです。もし既得権というならば、国民皆保険は日本国民全員の既得権です。医療という枠を超えた、日本の大切なセーフティーネットなのです。だから医師会は日本国民の一員として国民皆保険を守りたいと考えています。
─でも、医療保険が民間になると国庫負担は軽減されるのではないでしょうか。
田中 いいえ。結局国家コストも跳ね上がります。現に図1のように民間保険でまかなうアメリカでは、GDPに占める医療費の割合はOECDで断トツのトップで、それで悲鳴を上げてオバマケアとよばれる公的保険が導入されたのです。
─国民皆保険制度はどんな点がすぐれていますか。
田中 総合的にみて、高度な医療が受けられながら、患者は低コスト負担、国も低コスト負担、そして医師にも低コストで働いてもらうことができる点ですね。例えばアメリカの医師は日本よりはるかに高給です。しかし多額の民間保険料や訴訟費用が上乗せされているから高コストなのです。これは日本から見たらただ無駄なコストです。ほかにもさまざまな複合的メリットがあり、微妙なバランスの上で大変効率的に機能しているのが日本の国民皆保険制度です。
─私たち国民は、そのことを自覚していないように思います。
田中 はい。まず、皆保険制度の急所は「求心力」にあります。求心力が維持できていない形だけの国民皆保険制度であれば、それは崩壊していると見なさなければいけません。国民皆保険制度で最も利益を得るのは日本国民自身です。しかしまさに今この共通認識が保たれているかどうか。もしこの制度で損をするかもと誤解する人が増えたら、求心力を失って医療者も国民も離れていき、制度崩壊を止められなくなるでしょう。ところが、財務省は短絡的な予算の数字合わせにこだわり、1か月の自己負担額が約10万円を超えた際にすべて国が負担してくれる高額療養制度の廃止まで言い始めています。これでは求心力を失うことになりかねません。
─そうなったら大変です。
田中 皆保険制度の求心力はすなわち、国力でもあります。この求心力が失われた時、セーフティーネットの底が抜けて、日本は何世紀もの間立ち直れなくなるでしょう。逆に求心力が保たれていれば、少子高齢化で厳しい時代が続いても日本は必ず復活するでしょう。皆保険制度が崩壊すると、日本が他国に喰い物にされる可能性も考えられます。ある意味、皆保険制度は国家の安全保障でもあるのです。
─どうすれば日本の良い医療を守ることができますか。
田中 医師会は会員自身が会費を出し合って、日本の将来のために国民皆保険を守ろう としている団体です。言わば、有志が集まって自主的に結成された「町の火消し」のような存在なのです。なのに、マスコミの印象操作で、誤解が多いのですね。確かに医師会は医師の労働組合的な側面もありますが、国民皆保険を守るという目的においては公の利益と一致しているのです。しかし、医師会はイメージと違って強くありません。ただ、医師会が弱ると財務省の意のままとなって国民皆保険も危機に陥ります。ですから国民皆保険を守るために、みなさまにはマスメディアやプロパガンダに惑わされずに、ぜひ自分の頭で素直に考えて判断していただきたいですね。そして、医師会や医療者も、パブリックディプロマシーを通じて市民のみなさまへ正しい情報を伝えていくべきではないかと思います。