4月号
有馬温泉史略 第四席|和歌から探る やんごとなき有馬 平安時代
語り調子でザッと読み流す、湯の街有馬のヒストリー。
歌は世につれ。川柳川柳師匠じゃありませんが、よくそう言いますよね?今回は歌、といっても歌謡曲じゃなく和歌なんですけど、それを通じて平安時代の有馬がどんな感じだったか探ってみるとしましょう。
和歌の古いのっていうと万葉集ですが、有馬(有間)は載っておりますよ、古湯ですしね。
〇しなが鳥居名野を来れば有間山
夕霧立ちぬ宿りはなくて
ちなみに、しなが鳥とはカイツブリのことで、居名(猪名)の枕詞です。で、平安以降も有馬の名がいろいろな和歌に登場してきます。その代表格が百人一首の58番。
〇有馬山猪名の笹原風吹けば
いでそよ人を忘れやはする
これを詠んだお方、大弐三位は、紫式部の娘さんでございます。また、本誌でおなじみ風さやかさんのタカラヅカの先輩で昭和の映画スター、有馬稲子さんのお名前はこの歌に由来するそうですよ。で、ほかにもいろいろ詠まれておりますのでご紹介。
〇有馬山おろす嵐のそよぎつつ
秋をも待たぬ猪名の笹原
〇ありま山すそ野の原に風ふけば
たまもなみよるこやの池水
〇有馬山みねゆく雲に風さえて
あられ落ちくるゐなのさゝはら
はい、ここで気が付きました?そう、有馬といっても有馬山のことばっかりで、しかも猪名野や昆陽、つまりいまの伊丹あたりとセットになっていますよね。このパターンはほかにも枚挙にいとまがないのでございます。
これは旅情ってやつでしょうかね。都から有馬温泉へ向かう途中の夕刻、旅の疲れを感じる頃に通るのが伊丹らへんの吹きっさらしの淋しい野路で、教養ある都人は万葉集の一首を思い出し、そこに自身の心情を重ね合わせ歌を詠んだ。要するに「しなが鳥…」の古歌をオマージュし続けてきたのでしょうね。まあ落語に例えれば、笑話本『軽口初笑』の一節が上方噺「時うどん」になり、それが関東で「時そば」になり、瀧川鯉昇師匠で「蕎麦処ベートーベン」になったようなもんじゃないでしょうか。でも、そもそも伊丹から有馬温泉の山は見えない。じゃ、有馬山って有馬温泉じゃないの?って話ですが、有馬温泉のある六甲連峰の東端をまるっとざくっと「有馬山」ということにしていたのでしょう、昔の人は大らかですからね。
じゃ温泉はどこ行った?大丈夫、有馬の湯を詠んだ歌、ちゃんとございます。
〇わたつみははるけきものをいかにして
有馬の山に塩湯いつらむ
〇思ふこと有馬の里に出づる湯に
絶えず涙をわかす頃かな
〇珍しき御幸を三輪の神ならば
しるしありまのいてゆなるへし
ほかにもいろいろありますが、以上順番に源兼昌、藤原為忠、源資賢の歌でございます。この3首から読み取るに、その頃、つまり平安時代の有馬温泉は、現在と同様の塩分濃度が濃い泉質で、「里」とよべるレベル程度には建物や施設が揃っていて、天皇の行幸もあった、ということになりましょうか。
実は、この世をわが世と思っちゃったくらい権勢を誇った藤原道長が1024年に、その息子の頼道も1042年に有馬へ入湯したという記録がございます。また、和泉式部も姫路書写山からの帰路に有馬で温泉に入ろうとしたけど女の子の日で断念したという逸話も残っています。セレブなインフルエンサーのブログ的な『枕草子』にも「湯は七久里(※)、有馬の湯、玉造の湯」って出ていますし、『宇津保物語』や『栄花物語』にも登場しますし、有馬温泉はやんごとなき女子たちの憧れだったんでしょう。亀岡の湯の花も雄琴も未開発だった当時、有馬は〝都心から一番近い温泉リゾート〟。貴人たちがいとおかしなヴァカンスを楽しんだのもさもありなんで。
ところが11世紀の終わりに大雨が降り、賑わう有馬温泉を大洪水が襲います。果たしてどうなってしまうのか──それは次回に!
※七久里=榊原温泉(三重)説と別所温泉(長野)説がある。