4月号
⊘ 物語が始まる ⊘THE STORY BEGINS – vol.17 宮島 正弘さん
新作の小説や映画に新譜…。これら創作物が、漫然とこの世に生まれることはない。いずれも創作者たちが大切に温め蓄えてきたアイデアや知識を駆使し、紡ぎ出された想像力の結晶だ。「新たな物語が始まる瞬間を見てみたい」。そんな好奇心の赴くままに創作秘話を聞きにゆこう。第17回は撮影監督、宮島正弘さん。
100年先まで見てもらうために…
映画修復に懸ける撮影監督の情熱
師の創作意図の伝道者
黒澤明監督の「羅生門」、溝口健二監督の「雨月物語」…。近年、日本映画の名作の数々が、鮮やかな映像の4Kデジタルリマスター版として修復され、現代に蘇っている。
「映画は観客に見てもらわなければ意味がない。保存されているだけでは、それは映画とは呼べない。100年先まで日本映画の名作を残すために……」
色味や光の濃淡の調整など、このデジタルリマスター作業で監修を務めているのが、邦画界のベテランカメラマン、宮島さんだ。
「羅生門」に「雨月物語」。撮影監督はいずれも日本を代表する名匠と呼ばれたカメラマン、宮川一夫さん。
宮島さんの師匠である。
「宮川撮影監督に憧れて、映画界を目指し、大映に入社しました」と語る宮島さんは、この言葉通り、1966年に大映入社以来、半世紀以上にわたり、邦画界の撮影現場を支えてきた。
黒澤明監督の「影武者」、篠田正浩監督の「瀬戸内少年野球団」では宮川撮影監督のチーフ助手を、五社英雄監督の「226」や「陽炎」では森田富士郎撮影監督のチーフ助手を務めてきた。
大映作品の権利を持つKADOKAWAのこの4K修復プロジェクトに、宮島さんが監修者として参加したのは約8年前。
「日本の名監督たちが撮った傑作を蘇らせるためなら協力したい」と立ち上がったハリウッド界の巨匠がいる。世界で大ヒットした「タクシードライバー」や「レイジング・ブル」などで知られるマーティン・スコセッシ監督だ。
「雨月物語」や「山椒大夫」などの他、2年前には「無法松の一生」のデジタルリマスター化を資金面などで支援し、話題を集めた。
そのスコセッシ監督から「監修はあなたにしかできない」と指名されたのが宮島さんだ。
「もう少し赤色を抜いて…」「もっと暗く…」などデジタルリマスターの作業において、画像の色味や明るさなど最終の映像の調整を判断するのが宮島さんの仕事。その作品を撮った映画監督や撮影監督の創作意図を熟知した者にしかできない緻密な作業である。
その役割は、当時の製作者たち以上に、大きな責任を負っているといえるかもしれない。
なぜなら、100年以上、この映像が残るのだから…。
憧れの作品を自らの手で修復
これまで宮島さんが監修し、4Kデジタルリマスター版で蘇らせた映画本数は計27本。
その中には、師匠の森田さんが撮影監督を務めた特撮時代劇「大魔神」3部作シリーズもある。
監修の際の極意について聞くと、宮島さんは、こう即答した。
「色も明るさも、頭ではなく、すべて目が覚えている。目が反応するのです」と。
この言葉には説得力がある。
「大魔神」の2、3作目で撮られた〝映像〟を、宮島さんは、撮影現場でカメラを回す森田撮影監督の真横で直接見ていたのだ。
宮島さんは1966年、大映の京都撮影所技術撮影課に配属された。その初出勤日。
「朝、撮影所に着くと、いきなり撮影所の所長から、『あいさつはいいから、早く試写室へ行って』と言われました。急いで試写室へ入ると、そのスクリーンに映っていた映画は『大魔神』だったのです。感動しました…」
今では当たり前のように行われているブルーバック合成の特撮技法。森田さんが日本で初めてこの技法を試みたのが「大魔神」だ。
「シリーズ2、3作目の『大魔神』の撮影現場では、私は森田撮影監督の〝フォース(4 )〟を務めました。フォースとは4番手の助手という意味。つまり、その現場で一番下の助手だったんですよ」と振り返る。
第二次世界大戦下の1942年、宮島さんは広島県で生まれた。
「映画の道へ進もう」と、決意したのは早く、小学6年のとき。きっかけは小学校で巡回上映されていた映画「山椒大夫」だ。
「映画の迫力に圧倒され、その場では涙が出なかったのに、家に帰って泣きました。涙が止まらなくて…」
中学生になると、さっそく行動を起こす。「先生に頼んで写真部を創部したんです」。暗室も自作し、撮影したフィルムを自ら現像して写真の技術を身につけていった。
「でも、どうしたら映画の世界へ行けるのか? 広島の田舎の子供にはそんなことは分かりません。中学の先生が、東京に映画を学べる大学がある。そう教えられて…」。地元の高校へ進み、猛勉強し、日本大学芸術学部映画学科へ進学する。
上京したが、大学の入学式には出席せず、その日、向かったのは新宿の映画館。そこで見た映画が黒澤監督の「用心棒」だった。
「一日中、映画館に入り浸り、計4回見た後、翌日も映画館へ行きました」と苦笑する。
大学3年になると、撮影スタッフとして、東映の大泉撮影所に入り浸るようになる。
「憧れの宮川撮影監督がいる大映に絶対、入りたい…」
ところが卒業の年。大映の新卒採用試験が行われないことを知った。だが、あきらめきれず、大映本社へ行き、当時の永田雅一社長に直談判し、翌年、正式に大映に採用された。
絵コンテで〝復元〟する創作魂
デジタルリマスター作業の監修に際し、宮島さんは映画のオープニングから、エンドロールまで、すべてのカットを絵コンテで描き起こしていく。
びっしりと絵コンテが描き込まれた何冊かの大学ノートを見せてくれた。
「監修する際、正確に指示するための、つまり、これはメモなんです」と説明されたが、ノートを開いて驚いた。
コマごとにワンカットずつ。精密に描かれた絵コンテは数十ページに及び、1作につき2、3冊の分量。詳細に描き込まれた絵コンテは、ワンカットずつが、まるで一枚の絵画のようで、〝メモ〟と呼ぶにはあまりにも丁寧に描き込まれているのだ。
「このまま1冊の漫画として発刊できそうですね?」と聞くと、「映画関係者がみんな欲しがるので、監修が終わったら進呈しているんですよ。スコセッシ監督も、『コピーさせてくれ』と言うので、数冊、プレゼントしてきました」と笑った。
この絵コンテを仕上げるために、「一本の映画を数十回は見返します」と言う。
「監督はこの作品をどんな思いで撮ったのか? 絵コンテで描き起こしていく中で、その思いに、ようやくたどり着くことができる。どんな色にしたかったのか。明るさは、など。さらに、この明るさで撮ろうとしていなかったはず…。そんなことも分かってくるのです」
宮島さんにとって絵コンテを描く作業は、きっと、今はもうこの世にいない映画監督や撮影監督たちとの〝会話〟の作業なのだろう。
師匠・宮川作品の監修ではこう気合いを入れる。「宮川さんの創作の思い、心を知る人で、今も生きているのは、おそらく自分だけ。宮川さんの思いを読み取り、後世へ残さなければ…」と。
「半世紀以上も前に撮られたフィルムは劣化し、ぼろぼろになってきています。今が修復の最後のチャンスだと思う。現存している名作のデジタルリマスター化は急がねばなりません」
今年は大映創設80年。これを記念し、数本のデジタルリマスター化とその上映も計画中だという。「まずは秋の上映イベントに向けて、今、監修を進めている名作がいくつかあるんですよ」と教えてくれた。
今年80歳を迎えるが、小学6年のときに見た「山椒大夫」を見て泣いて以来、芽生えた映画への感動と情熱は少しも色褪せてはいない。
この数年間、海外の複数の映画祭からゲストとして呼ばれているが、コロナ禍、いずれも中止やリモートでの参加に。「スコセッシ監督からも今度はいつニューヨークへ来るのか、と呼ばれていて。次作の修復についての相談もしないとね…」
日本映画を後世へ残すために―。たとえコロナ禍でも、この情熱だけは衰えを知らない。
(戸津井康之)
京都府 京都文化博物館にて
宮島 正弘(みやじま まさひろ)
1966年より大映京都撮影所技術撮影課入社、1982年に退職。以来、フリーを経て旧大映 映像京都に入社し多くの撮影に携わった。『影武者』(黒澤明 80)『瀬戸内少年野球団』(篠田正浩 84)等では宮川一夫撮影監督のチーフ助手、五社英雄監督の『226』(89)『陽炎』(91)等では森田富士郎撮影監督のチーフ助手も担当した。元大阪芸術大学映像学科客員教授、元日本映画撮影監督協会理事役員。
〈4K修復監修作品〉
『炎上』、『おとうと』、『雪之丞変化』(市川崑監督)、『雨月物語』、『山椒大夫』、『近松物語』、『赤線地帯』(溝口健二監督)、『刺青』(増村保造監督)、『浮草』(小津安二郎監督)、『無法松の一生』(稲垣浩)他