2月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㉒前編 菊原静男
菊原静男
播磨が生んだ天才エンジニア…菊原静男の功績
〝播磨のサムライ〟誕生
かつて〝5人のサムライ〟と呼ばれた日本屈指の航空技術者がいた。その一人、菊原静男(1906~1991年)は、兵庫県姫路市の商家の長男として生まれ育った。
「新しいことに挑戦したい」と東京大学工学部航空学科へ進学。卒業後は地元・兵庫へ戻り、神戸市で創業した航空機メーカー「川西航空機」(現新明和工業=本社・宝塚市)へ就職する。このとき面接で川西龍三社長からこう釘をさされた。「先行きはどうなるか分からない。飛行機は大変だぞ」と。だが、この言葉が逆に菊原の闘争心を燃えあがらせた。
「問題は難しいほど面白い!」
技術者を志した頃から、こんな強い信念をもっていた菊原は、迷わず川西航空機に就職する。その後、前途多難の道を切り開きながら、世界の航空技術者が、誰も到達できなかった〝伝説の航空エンジニア〟へと登り詰めていくのだ。
それにしても、菊原は、なぜ川西航空機を就職先に選んだのか。その理由が、ノンフィクション「日本の名機をつくったサムライたち」(前間孝則著)の中で明かされている。
理由は「実家から近かったから」。何とも牧歌的だ。
川西航空機の創業者は、前回の連載でとりあげた、神戸市生まれの実業家で、飛行機開発に憑りつかれた川西龍三だ。
菊原をはじめ日本の無類の航空機好きたちが、神戸の地に航空機開発の拠点を興した龍三の元に集結してきたのは、偶然ではなく、必然だったのかもしれない。
菊原が故郷を職場に選んだ理由は、もう一つ。これも牧歌的で「海が大好きだったから」。彼は幼い頃から自宅近くの播磨灘の海でよく泳いでいたという。
水上機への憧憬
空と海…。このふたつを繋ぐ環境に恵まれた立地にあったのが、まさに川西航空機だった。ここから、菊原は傑作機と呼ばれる水上機や飛行艇を世に送り出していくことになる。
菊原が、東大で卒業研究に選んだテーマは、「シュナイダー・トロフィー・レース」に参加する水上競争機の機体設計だった。
このレースは、フランスの大富豪、ジャック・シュナイダーが主宰した湖水や川など水面から離発着する水上機によるスピードレースの世界大会。1913年から1931年まで欧米各地を持ち回りで開かれ、名だたる航空機メーカーが参戦していたことで知られる飛行機マニア憧れのレースだ。
やはり、無類の飛行機好きで知られるアニメ界の巨匠、宮崎駿監督がアニメ映画の傑作「紅の豚」(1992年)で、シュナイダー杯の歴代優勝機を彷彿とさせる飛行機を劇中に登場させ、改めてその存在、人気の高さを現代の映画ファンたちに紹介した。
宮崎監督は、その後、〝5人のサムライ〟の中の一人、ゼロ戦設計者の堀越二郎を主人公のモデルにして劇場版アニメ「風立ちぬ」を製作している。宮崎にとっては、〝5人のサムライ〟の一人である菊原も憧れの航空エンジニアの一人だった。
飛行機好きなら誰もが憧れながらも、遠い存在であったこのシュナイダー・トロフィー・レースに、学生時代の菊原はすでに照準を定めていた。世界と戦う覚悟を固めていたのだ。
「自分が手掛けた日本の水上機で世界記録を…」と。
姫路で生まれ、播磨の海や山を駆け回って育った菊原少年の心には、すでに、世界中の空と海とを縦横無尽に駆けめぐる水上機開発の夢が芽生えていたのかもしれない。
赤道を超え、南洋航路を開拓する民間航空会社の奮闘を描いた東宝の映画「南海の花束」(1942年)に、菊原が設計を手掛けた川西航空機の九七式飛行艇が登場する。
実際に菊原は、横浜―チモールの民間航空路開拓のための調査飛行のため、九七式飛行艇に乗って、サイパンやパラオへ飛んでいる。
「このときの視察で、私は南洋諸島の何千という島々の周囲が珊瑚礁にかこまれているのを見た。珊瑚環礁の中は実に静かで、これこそ理想的な天然飛行場だと思った…」
菊原は、播磨灘で抱いた少年の頃の夢を世界を舞台に叶えていく。
九七式飛行艇の優れた能力を認めた海軍はさらに高い性能の飛行艇の開発を要求する。
「航続距離の要求は四○○○海里(七四○○キロメートル)、巡航速度も速い。当時としては、この距離を実現することは容易ではないと思った。それだけにまたファイトもわく…」。こう己を鼓舞した菊原のエンジニア人生は一気に開花しようとしていた。
=後編へ続く
(戸津井康之)