8月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~④横溝正史後編
ミステリー界に刻みつけた横溝正史の創作魂
薬剤師、行員の経験生かし
ミステリー作品の着想の多くを、故郷・神戸や疎開先の岡山から得ていた作家、横溝正史。探偵、金田一耕助が登場するロングセラー「悪魔が来りて笛を吹く」では神戸をはじめ、淡路島など兵庫の地名が随所に登場する。
1979年、俳優の西田敏行が金田一を演じ、映画化されたときのポスターは衝撃的だった。金田一の後ろに写り込む、フルートを持った耳の大きな悪魔の姿を見て震えたのは子供たちだけではなかったはずだ。
宝石店「天銀堂」で店員10人が何者かに毒殺され、宝石が奪われる事件が起こり、容疑者の椿元子爵が姿を消す…というストーリー。
〈神戸も戦災がひどくて、須磨のあたりも大部分焼きはらわれているが、須磨寺を中心として、わずかばかり焼けのこったこのあたりのたたずまいが、折りからそぼ降る秋雨のなかに、辛うじて古風な時代の昔をたもっている…〉
これは、金田一が容疑者のアリバイを調べるために、刑事と一緒に須磨寺近くの宿に泊まったときの描写だ。
かつて、同寺周辺には豪邸や別荘が立ち並んでいたが、戦災でその多くを焼失した。幼い頃から戦後にかけて、激しく変貌していく故郷の風景を見てきた横溝は、没落する旧華族の斜陽を、郷愁の思いと重ね合わせ綴っていく。無常の世のはかなさを嘆くように。
物語はフィクションだが、銀行員12人が殺害された48年の「帝銀事件」を彷彿とさせる。犯人は逮捕されたが、無罪を主張したまま死去。戦後の混乱期、GHQ絡みの〝毒殺事件〟は多くの謎を残したまま幕を下ろす。
横溝は神戸二中を卒業後、第一銀行の神戸支店で約1年間、働いている。この銀行員としての経験が、その後の横溝作品に影響を与えていたことを示す一作でもある。また、薬剤師としての知識が、帝銀事件を分析する中で、どう生かされていたかも興味深い。
銀行を辞め、現大阪大学薬学部に進学し、薬剤師の免許を取得した横溝は、現在の神戸市中央区で薬局を営んでいた。
2004年、再開発された神戸ハーバーランド西隣の公園内に、横溝を慕う地元の有志たちの手で生誕碑が建てられた。以来、この地は熱心な横溝ファンが訪れる神戸の観光スポットとして親しまれている。
文学史に刻む残像
横溝が、その後の日本の文学界へ与えた影響は計り知れない。これまで筆者は多くの作家たちを取材してきたが、必ず聞く質問がある。
「あなたが最も影響を受けた作家は誰ですか?」
貴志祐介、綾辻行人ら関西在住の推理作家たちは、必ず共通の作家の名を挙げる。
「もちろん横溝正史です」と。
東京で売れっ子作家となって成功した後も望郷の念を込め、神戸を好んで小説の舞台として描き続けた。その横溝の郷土愛の精神は、関西を拠点に執筆活動を続ける後輩推理作家たちの誇りであり、創作魂の中に引き継がれている。
そして横溝にとって第二の故郷とも呼べるのが岡山だった。金田一シリーズでは、神戸と岡山が舞台として度々描かれる。最も人気の高い作品の一つとして度々挙げられるのが「獄門島」だ。架空の島だが、「八つ墓村」と同様、モデルとなった舞台がある。瀬戸内海に浮かぶ岡山の小さな島である。
筆者は新聞記者としての初任地、岡山で支局の先輩記者から、ある事件について聞かされ、慄然とした。
「何年も前、瀬戸内海の小島の民家で、年老いた男女二人が亡くなっていた。一人は胸に刃物を突き付けられ、一人は首を絞められた状態で…。どちらが先に殺したのかが分からず、捜査は難航。民事訴訟にもなったんだ」
当時、捜査したベテラン刑事にこの事件の発生時の状況を聞くと、遠い目をしながら教えてくれた。
「あの事件の捜査は大変だったよ。旅館もない寂しい島。島の公民館を借りて布団何十組を床に敷いて連日、捜査員が寝泊まりしながら捜査したんだがね」
結局、事件は迷宮入りした。
「獄門島」のモデルの一つと伝わる島で、時を経て怪事件が繰り返し起きている…。
もし、横溝が生きていたら、きっと小説の題材にしたのではないか。金田一なら、どうやってこの事件の謎を解いただろうか。
=終わり(次回は嘉納治五郎)
戸津井康之