5月号
「ハイカラ神戸の映画少年」|東山 魁夷 さん(日本画家)・ 淀川 長治 さん(映画評論家)|月刊神戸っ子 アーカイブ集
二中と三中、みなと町の下町の
東山 わたしはね、神戸の二中(現兵庫高校)だったんです。この間ね、唐招提寺で絵を発表しましたときには、その二中の同級生が50人と、先生もおふたり来てくだすって、唐招提寺の長老がとても喜んでね、みなさんをよくもてなしてくれましてね。
淀川 ええ、ええ、同級生の誇りですものね。
東山 いえ。私の弟はね、淀川さんと同じ三中(現長田高校)なんですよ。
淀川 まぁあなたの弟さん、三中ですか。
東山 だけどもう死にましたけどね、二十九くらいで。
淀川 おつらかったねぇ、そうですか。三中に。
東山 兄と私は二中でしてね。
淀川 やっぱりね、二中は頭がいい……。
東山 いや、二中はね、大変バンカラなんですよ。
淀川 あのね、ご存じかもしれない。あの頃、二中にね長峰快剣てアダ名の習字の先生がいらっしゃった。
東山 ああ長峰快剣(毛筆の名)よく知っています。
淀川 ご存じ?よかった。ヒゲを生やした人でね。お習いになりましたか?。
東山 習ったかどうか、覚えはないんですが……。
淀川 私は子どもの頃からね、ミミズの跳ねたような字を書くのでね、こんな子しようがないって、その長峰快剣さんのところに習字を習いに通ってたんです。大正のね、恥ずかしいけど大正の六年頃です。日曜日か土曜日かになると習いに行かされて、でもつらくてつらくて。
その人がね、筆を運ぶときに、ウンウンウーンっていってね、それをまた「笑うな」ってね。(笑)
東山 そうそう、そうそう。じゃやっぱり私も習ったんですね。今お話聞いてますと思い出します。
淀川 ヒゲを生やした純日本式の先生でしてね。で、私が八つか九つのその頃、先生に何を上げたかというと、映画のブロマイド上げたんですよ。(笑)活動写真のブロマイド。メリ・マクラレン。「先生きれいでしょう」いうたら「ええ美人です」なんて。(笑)
東山 淀川さんは神戸のどちらにいらしたんですか?。
淀川 私は、生まれたのは西柳原で、それから布引へ変わって。
東山 私はね、生まれたのは横浜なんです。三つの時に神戸に来たのかしらね。それから美術学校に入るまでおりました。だから戦争の始まった頃まで。新開地のすぐそばの、西出町とそれから湊町、下町です。
淀川 あぁいいところですよ、そこにいらっしゃった。
東山 だけど西出町の家は細い路地のねぇ……。
淀川 みんなそうですよ、あの時分は。
東山 父が小さな船具屋をしていました。
淀川 そういうご商売のおうちの友だち、いましたよ、私の学校にも。船のご商売の方はみんな坊っちゃんよ。
東山 いやいや、うちはまた例外なんですがね。もとはそれでもよかったらしいですが。だんだんダメになって。
淀川 私のとこでもそう。大正時分は全部そうですよ。もとよかった、だいたいそういうケースですよ。じゃあ三才からあの辺りにいらっしゃったら、ひょっとすると兵庫の大仏さん、お行きになったことあるかしら。
東山 もちろん。大仏さんはしじゅうですよ。
淀川 おんなじだ、大仏さんにお行きになったことあるのですね!ひょっとするとすれ違ってたかもわからへん。
東山 あの前におびんずるさんがありましてね。あれをしじゅう撫でさされて。
淀川 ええ、ええ。じゃあそういう点では本当にお近くでございますねぇ。
東山 ですから神戸というより兵庫ですね。
淀川 私もずっと兵庫そだち。布引の方に移ったのはもっと後ですから。兵庫っ子ですよ。
〈於 東京 花くま〉
1976年1月号