11月号
連載 浮世絵ミステリー・パロディ ㉟ 吾輩ハ写楽デアル
中右 瑛
写楽の墓発見! の誤報
大正年間、吾輩の熱が高まったころ、「吾輩にまつわる大発見!」があった。しかし実は「大誤報であった!」の話もしておかなくてはなるまい。
幕末頃の『増補・浮世絵類考』(一八四四)には、吾輩は「阿波候お抱え能役者・斉藤十郎兵衛」と記載されている。そのせいで、後世の研究家たちは、阿波徳島へと調査のためにやってくる。徳島は写楽研究にとって欠かせない重要な聖地となってしまったのだった。
大正の中ごろ、「徳島市内で写楽の墓が見つかった!」と、大いに騒がれはじめたのだ。
徳島出身の考古学者・鳥居竜蔵博士は、写楽と伝わる斉藤十郎兵衛が徳島出身ならば必ず出身地に墓があるに違いないと、徳島市内の寺々を探索し、やっとそれらしき墓を発見した? というのである。
大正一四年(一九二五)六月二一日付けの朝日新聞が大々的に報じたのだ。
その朝日新聞紙上の鳥居博士の談話によると、
「墓があったのは、徳島市内の日蓮宗・本行寺。写楽の墓所については、徳島市の素封家・松浦徳次郎氏が出版した『阿波名家墓所記・続編』のなかに、本行寺にある、と書いてあった。
写楽の姓は斉藤、通称を十郎兵衛といわれているが、実際は春藤次左衛門が正しい。春藤家の能役者で、ひとかどのものと認められていたが、浮世絵師としては当時はもちろん、ドイツのクルトの著書『SHARAKU』(一九一〇ドイツ刊)が出版されるまでは、ほとんど世に知られることはなかった。
当時の藩主たる蜂須賀十二代・重喜公は豪奢を好み、写楽の画風も豪放で南国的情味豊かで皮肉味の多いのは、徳島人の気質を表している。
発見した写楽の墓は三段の敷石の上に立っていて、総高さ四尺五寸。周囲には春藤家代々の戒名と死亡年月日が刻まれ、写楽といわれる次左衛門の戒名は「寶蓮院釋蛙水居士」とあった。推測すると、文化頃に死んだと思う。
本行寺の過去帳は文化九年(一八一二)以前のものは全部焼失している。私は更に踏査するつもりでいる(談)」(誌面の都合で一部省略した)
とある。
これはクルト著『SHARAKU』と同じく、蜂須賀・阿波候お抱え能役者を踏襲した説である。
ところがこの発表後、写楽研究の草分けである仲田勝之助氏が、真言宗・東光寺(徳島県寺当郡寺町)で、写楽の戒名が載っている過去帳を発見し、墓碑に刻まれた「素月院釋清光居士・天保一四年八月一二日没」が写楽であると反論した。
そのため、鳥居博士も自説を改め、仲田説に賛同したのだ。現在、東光寺ではこの墓碑を吾輩の墓として祀っている。
ともあれ、考古学の権威である鳥居博士による墓発見は、地元はもちろん全国的に一大センセーショナルを巻き起こし、以来、写楽熱は一段と盛り上がったのである。
鳥居博士は吾輩の本名は春藤次左衛門だといい、仲田説の根拠となった過去帳も真贋不明。鳥居説も仲田説もともに間違いである。大発見! は誤報だったのだ。
それ以降、斉藤十郎兵衛の墓や過去帳探しが始まった。
平成九年(一九九七)六月、埼玉県越谷市の法光寺で、これこそ本もの「斉藤十郎兵衛の過去帳発見!」の大ニュースまでおよそ七十二年もかかったのである。しかしこのニュースは、能役者・斉藤十郎兵衛の過去帳であって、吾輩のものではない。間違えないように…。この発見ニュースはまたの機会にご紹介いたそう。
徳島には、今もさまざまな写楽伝説が残されている。
写楽が使ったという行灯の話。狩野派の相撲絵の話。フィクション的なものや、推測の域を出ないものなど、さまざまだ。
その最たるものは、「ボルネオで写楽絵発見!」だ。これには明治期のカラユキさんが絡んでいる。
次回をお楽しみに…。
中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。
1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。