5月号
触媒のうた 15
―宮崎修二朗翁の話をもとに―
出石アカル
題字 ・ 六車明峰
春の彼岸に出石へ出かけた。元出石町長、奥村忠俊氏のお世話で岡本久彦先生のご子息、雅久氏に会わせて頂けることになったのだ。これは是非、宮翁さんの話の裏付けを、ということで。
久彦先生が生前愛したという庵にと聞いていたので小さなものを想像していたが、ちがった。案内されたのは、天橋立辺りから昭和49年に移築したという古民家だった。立派なものである。沢庵禅師に因み「行雲居」と名づけられている。築130年を超えると。元はかやぶき屋根だったそうだが、屋内で火を焚かないと早く腐ってしまうというので瓦様の建材が被せてある。内部は全く昔の民家。二階を見学させて頂いたが、屋根裏がむき出しになっており、荒縄で柱が組まれていて迫力があった。
座敷に通して頂いて不審なことが。10㎝巾ぐらいの変色が、畳から一メートルばかり上の壁に横一線に帯のようにあるのだ。八年前の台風23号で侵水した際の痕だという。痛々しいかぎりだ。
平成16年10月20日、舞鶴市で観光バスが水没し、乗客が屋根の上に逃げて危機一髪助かったということがあった、あの台風である。出石も橋や家屋が流されるなど甚大な被害が出たのだった。その時の町長さんが、今回、仲介の労を取って下さった奥村忠俊さん。あの時は奮闘されたのだった。
「父に避難をするように言ったのですが、『ここに居る』と言って二階で頑張っていたのでした。父の長年の夢を実現させた場所だったんです。母屋で過ごすのはご飯の時とお風呂と寝る時だけでした。あとはここで自分の研究をしていました」
雅久氏は63歳。舞台役者のような整った顔立ちの人である。
会話しながらさりげなくお抹茶をふるまって下さった。雪見障子から、まだ雪が残るお庭を見ながらいい雰囲気である。
父君の久彦さんは学生時代から茶道に親しんでおられ、生前は裏千家の淡交会但馬支部長を務めておられた。雅彦氏もそれにならっておられたのだ。
聞けばこの庵には、大仏次郎、田辺聖子、小松益喜、清水公照など多くの文人墨客が過去訪れている。みんな喜ばれたであろうと想像できる。
部屋に扇面を表装した軸が掛っている。
はしけやし
出石の山の
うす紅葉
ふたヽび君と
あはむ日もがな
田辺聖子
「ここで書いて下さったものです」と。
岡本先生への心のこもった歌だ。
先に上げた岡本先生の著書『出石の歴史散歩』だが、これに田辺さんの文章が一部引用されている。
「さるすべりの多い静かな町……城あとの高台から見おろす城下町は寂れ、澄んだ空気の中で黄色のわくら葉が音もなく散っている。それは夢のなかのように調和のとれた世界であり…」(随想“めぐりあい”)
これのことなのかな?前号にも書いたが、宮翁さんが仰ったのは。再掲します。
「一度、作家の田辺聖子さんを岡本先生にお会わせしました。そしたらね、田辺さんがすっかり岡本さんのお人柄に感心されて、その時の話をたしか朝日新聞の随想欄に書かれたことがありました」
ということで、この『出石の歴史散歩』を岡本先生は田辺さんに贈られたのだ。
田辺さんからのお手紙を雅久氏がお見せ下さった。昭和58年5月の日付。『出石…』への礼状である。「ごぶさたしております」で始まるということは、以前にもお会いになっているということ。それが、宮翁さんがお連れしての時のことだったのだろう。
ところで、田辺さんが書かれた扇面の掛け軸である。
雅久氏にお尋ねした。「これはいつ?」
「やはり昭和58年ですが、11月でした」と。
ということは、この『出石…』が出た年の秋に再訪されたのだ。
先の手紙にあった「まだまだ近在を知りませんので、いずれ但馬路をゆっくり旅して探ってみたいと、これは長年の念願でございます。」を実現されたのだ。
それが小説に結実するのは十年以上後の平成十年前後に書かれた『お気に入りの孤独』なのだろうか。
前号で「日本の歴史学界にも影響を及ぼしたという取っておきの秘話は次号で」と予告したが、今号では果たせなかったので、次の号で。
つづく
出石アカル(いずし・あかる)
一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。喫茶店《輪》のマスター。