8月号
玉岡かおる著『ウエディングドレス』発刊!
お洒落・ファッション, ブライダル, 人
桂由美さんをモデルに
“花嫁衣裳の昭和史”を描きました
作家 玉岡 かおる
作家の玉岡かおるさんが幻冬舎から『ウエディングドレス』を出版。ブライダル業界の第一人者・桂由美さんの半生をモデルに描かれた作品だ。6月26日、神戸・北野で行われた出版記念会(主催・宇山サロン)での講演から抜粋してご紹介する。
結婚式の今むかし
この本は、ウエディングドレスを日本に定着させた女性をモデルに、ブライダルデザイナーの昭和史についてつづっています。その第一人者といえば、帯を書いていただいた桂由美先生です。小説の中では名前は変わっていますが、これは桂先生だなと分かるものになっています。
なぜ桂先生の物語を書くことになったかといいますと、私の長女が昨年、結婚をしたのですが、親はぜひ関西でやってほしいと願っていたのですけど、本人たちの希望でハワイと東京で式を挙げました。私たちの時代のことを思うと、昔は「ご両家」といって結婚は家と家の結びつきが強かったものでしたが、今は個人のものになっているようです。その娘がぜひ桂先生のドレスを着たいと言いまして、何回も打ち合わせに行くうちに、桂先生にお会いしました。
昨年、桂先生はブライダルデザイナー業50周年、半世紀を迎えられたそうです。桂先生が2言目におっしゃっていたことは、「私が始めた頃は、ブライダルっていう言葉すらなかったのよ」ということです。その当時は、「婚礼衣裳」なんて言っていて、町の美容院が実権を握っていたと思いません? 私も鬘(かつら)合わせに出かけましたが、文金高島田がきつくてサイズが合わなくても、「これ伸ばしといてあげるわ」なんて言われて、つまり人間が鬘に合わせていたんです。桂先生はそこに疑問を投げかけ、「物ありきではなく、人間に合わせてドレスや鬘を作りたい」と思われたんです。
桂先生はこれまで、ブライダル業界において「苦労が3つあった」とおっしゃいました。まず、桂先生がデザインしたウエディングドレスを最初にデパートに売り込んだとき、婚礼の部長さんが出てこられて、たくさん並んでいた黒振袖(当時はこれしかなかった)の着物を見せられ、「うちにはこんなに品揃えがある。ドレスなんか持って来られたら、これらが売れなくなって売り上げが半減する」と言われたそうです。自分たちの既得権益が減るからドレスを売らないなんて、そんなバカなことがあるかと。そこで桂先生は自分のアトリエでドレスを売ることにして、最初は赤坂にオープンされたんですが、芸能人の方なんかが訪れてオーダーメイドで作られた。「桂由美がドレスを売ったおかげで着物の売り上げが減った。」と、業界からのバッシングは相当なものだったそうです。でも、花嫁は軽くて素敵な、桂先生のドレスを選んだんです。
その後、イギリスのダイアナ妃のロイヤルウエディングから世の意識が変わったと桂先生はおっしゃいました。花嫁がティアラを載せるのが流行りました。すると男性の衣装が変わったんです。というのも、それまでは新郎の衣装といえば、紋付袴かモーニングしかなかった。ようやくタキシードが入ってきたのですが、桂先生いわく、ティアラをつけた正装の新婦に対してタキシードでは召使になってしまってつり合いがとれません。そこで正装である燕尾服を、また色直しにはいろいろなカラーの新郎の服をデザインしたとき、男がおしゃれしてどうするというバッシングを受けたといいます。これが2つ目の苦労です。
そして、3回目のバッシングは、桂先生が提案した和装ヘアメイクの改革でした。当時起きていた和装離れに際し、そのデメリットを払拭するため、白ぬりメイクをやめ洋髪にしたり、それまでの重厚な打掛けからセミの羽根のように軽い打掛けを作られたのですが、「そんなのは伝統の衣装じゃない」と、また業界からバッシングを受けます。でも、桂先生の言い分は、「私の和装改革によって、滅びるかもしれないといわれた西陣織や友禅染めが復活したんだ」と。もっと端的な例でいうと、後継者が少なくなっていた博多織の帯「博多帯」の職人さんから相談された桂先生は「なんとかして世界に打って出ましょう」と、当時のバチカンのローマ法王に祭服をデザインし献上された。ご高齢のローマ法王には重い衣裳はよくありませんから、ゴージャスでも軽い祭服を、そして法王はポーランド出身でしたから国の花であるパンジーを織られた。立体的に織られているのに軽いということで、一躍世界から博多織が注目を集めることになりました。
桂先生のドレスはこれまで、名だたる女優など芸能界や政財界の皆さんらも着てこられ、最近ではDAIGOさんと北川景子さんのドレスも注目を集めましたが、それ以外にも、日本の伝統技術を世界に伝えるなど桂先生にはたくさんの業績があるんです。
桂先生は他にはない
ポジティブシンキングの人?
以上3つがご苦労だったと桂先生はおっしゃいます。
桂先生が私の『お家さん』を読んでくださっていて、ご自身の小説を書くなら玉岡さんに、とおっしゃってくださったのですが、これで小説が書けると思いますか(笑)。
実際、もっといっぱいご苦労はあったと思うんです。会社が潰れたとか、好きな人と結婚できなかったとか、そういうのはなかったんですか!と申し上げたのですが、「全然なかった」とおっしゃる。
桂先生は、40歳を過ぎてからご結婚されました。婿養子として先生の会社を手伝いますというお話はたくさん来たそうなんですが、桂先生は「自身が知らない世界を教えてくださる方が良い」と思われた。そこで、当時の大蔵省の官僚の方とご結婚されたんです。ご主人は60歳の定年を過ぎてから、若い方にまじって司法試験を受けられて受かったというユニークな方でした。ご主人のお話といえばおっしゃったのは、お見合いのときに桂先生が着物を着ていかれたら、ご主人から「君はファッションデザイナーなんだから着物はもう着ない方がいいよ」と言われたと(笑)。じゃあってことでご主人のアドバイスで、今ではトレードマークになっているあのターバンのお洋服だったそうです。先生はご主人が亡くなられたときのことも一切お話しにならなかった。いい思い出はお話しになるけれど、悲しいことはおっしゃらない。そこで思ったのは、桂先生は他にはない、前人未到のポジティブシンキングの方なんじゃないかと思うんです。
ダブルヒロインは
桂由美と、昭和の女性たち
そんな順風満帆の桂先生の半生を描くなら、桂先生ともう一人、架空の女性を登場させてダブルヒロインの小説にしよう、と考えました。桂先生が“ウエディングドレスの頂点”の人なら、もう一方の女性は和装の“打掛けの頂点”の人でしょう。それと、何千、何万という昭和の女性がモデルです。
そしてそのモデルの中には、私自身の母親も含まれています。私の母は、兵庫県の小野の出身で、三木に洋裁学校を経営しておりたくさんの生徒をもっていました。戦後、男たちが戦争に行って帰らない中で、女性たちはなんとか子どもたちを食べさせ、その次はきちんとした着物を着せて礼儀正しく育てていこうとしました。また女性が世の中に出て働くためには洋服が必要でしたから、洋裁学校の役目は大きかった。母の洋裁学校は三木にあって、三木から名付けた「スリーウッド洋裁学校」というハイカラな名前の学校でした(笑)。洋裁は女性たちが生きていく術だったんです。そんな昭和の多くの女性たちをモデルにした「窓子」という姫路の女性を登場させました。
小説の冒頭で、「窓子」が姫路城を眺めるシーンが出てきます。姫路城は、戦争で3回爆撃されましたがそれらは3発とも不発弾で、燃えずに残ったお城です。これは奇跡か、神様か仏様か見えない力が働いたのでしょう。これは第一次・第二次世界大戦で焼け残ったイタリア・ミラノの絵画「最後の晩餐」に通じます。宮本百合子が『播州平野』という名作の中で、焼け野原の姫路でお城だけが残っているシーンを書かれていますが、私は新たな『播州平野』を書かなあかんという意気込みを込めて、姫路を舞台に選びました。姫路のヒロインの洋裁学校は、スリーウッドの私の母を真似て、姫路の“姫”、「プリンセス洋裁学校」という名前にしました(笑)。
日本は、女たちががんばって戦後の復興をなしとげました。編集者が、これを読んで「女の自立の物語だ」と言ってくれましたが、私は花嫁衣裳を通じた女の昭和史を書いたと思っています。男性に読んでいただいても、母たちの世代がいかに偉かったかを追想していただけるかと思います。今回はそんな戦後を舞台にして、東京弁と京都弁、播州弁の2人の主人公と、“語り”という方法で書きました。私の文学史の中でも大きな記念になる作品になったと思います。次回作までにはまた2年ほどかかると思います。
(6月26日「ブラインカフェ」にて)
玉岡 かおる(たまおか かおる)
1956年、兵庫県三木市生まれ。神戸女学院大学卒業。87年『夢食い魚のブルー・グッドバイ』(新潮社)で神戸文学賞を受賞しデビュー。主な著書に『虹、つどうべし 別所一族ご無念御留』(幻冬社)、『天平の女帝 孝謙称徳』(新潮社)ほか多数。 話題作『お家さん』(新潮社)で第25回織田作之助賞を受賞