5月号
ボーイスカウト神戸第23団の経験が、社会に出て役立った
2013年、海難事故に遭遇したテレビアナウンサーの辛坊治郎さんを救った救難飛行艇の設計製造に深くかかわったのが、新明和工業(株)の石丸寛二さん。小学生のころ、「海外で飛行機を設計する」という夢を抱いたという石丸さん。その実現にボーイスカウト神戸第23団での経験が大きく生きていると話す。
キャンプで教わった〝実践的危機管理〟
宇賀隊長との一番の思い出は、高野山キャンプ。今では考えられないような「戦争ごっこ」ですね。もう時効でしょうからお話しすると…真っ暗闇の山の中、テントを張って寝ようとしていると、隊長がロケット花火で夜襲をかけてきます。朝まで作戦を練りながら逃げたり、応戦したり…おちおち寝てなどいられません。今でこそ笑い話ですが、ロケット花火が暴発して隊長自らが大やけどを負ったこともありました。「なんでやけどしたか、恥ずかしくて言われへんなあ」と笑っているやんちゃな隊長は、私にとってはガキ大将のような存在でした。非常事態のシミュレーション訓練のようなものです。こんな危機管理を学校では決して教えてもらえませんからね。今なら保護者が怒鳴り込んでくるでしょうね(笑)。戦略や戦法、いかにして先手を取るかなど、そのまま社会の仕組みのようなもの。自分が会社に入ってから気づきましたね。中学生以上になると上級班長に任命されます。その下に班長や次長、隊員がいますから、会社でいえば幹部のようなものです。ピラミッド組織の中で権限を与えられ、何かあれば怒られて責任を取るのは上級班長です。例えばキャンプに行くなら、予算内で食糧を調達し、テントと水を入れたポリタンクを担ぎ、役割分担をします。自主性と企画力が要求されます。その経験が社会に出て役立っていると思うことが多々ありました。
一筆書きのようにつながる人と人とのつながり
小学生のころ、海外勤務が多い父を、私はいつも伊丹空港へ見送りに行きました。当時、海外へ飛行機で出かけて行くというのは、月へ行くようなもの。万歳三唱で見送られて飛び立っていく父の背中を見て、飛行機や海外に憧れて英語が好きになり、「海外で飛行機を設計する」という夢を持つようになりました。一方、母は一人での子育てに不安があったのでしょう、私と弟をボーイスカウトに入れて社会の規律を教えてもらおうと考えたようです。小学2年生のときでしたので、朝は早いし、冬でも半ズボンで寒いし、初めは正直、イヤでしたね(笑)。
その後、大学生までボーイスカウトの活動を続け、海外キャンプではシアトルへも行かせていただきました。卒業後は、子どもの頃からの夢を実現するため、地元の新明和工業に入社しました。当時の新明和は海上自衛隊の救難飛行艇「US-1」の設計が一段落したころで、私はアメリカシアトルのボーイング社で飛行機の設計等に携わることになりました。そこでなんと!ボーイスカウトのキャンプで一緒だった人と再会したのです。とても幸運な出会いで、不思議なご縁を感じました。シアトルをはじめ海外事業を14年間担当した後は「US-2」の設計製造の責任者を務めることになり、その後、ボーイング787の製造にも携わり、現在は新明和工業の航空機事業全体を統括する役目を担っています。
飛行機づくりの夢を実現してきた人生を振り返ってみると、グローバルだった父、ボーイスカウト、宇賀隊長、シアトル、飛行機、英語、新明和、ボーイング…人とのご縁を通し、全てが一筆書きのようにつながっていると感じています。
石丸 寛二(いしまる かんじ)
新明和工業株式会社 取締役 専務執行役員
1982年、神戸大学工学部(機械工学)を卒業し、新明和工業㈱航空機事業部配属後、海上自衛隊機の改造設計や、米国で民間航空機(MD-11,B777,G5等)コンポーネント設計に従事。2002年、技術本部 技術部長。2005年、US-1A改(現US-2)主任設計者。2008年、787プロジェクトマネージャー。2011年、執行役員 海外事業統括本部長 兼 航空機統括本部長。2012年、取締役常務執行役員 航空機事業部長 兼 飛行艇民転推進室長。2014年より現職