1月号
作家デビュー 15周年で切り開いた 〝イヤミスの女王〟の新境地 | 作家 湊 かなえさん
復帰作で覚醒
小説『告白』で鮮烈なデビューを飾って15年。心の奥に潜む闇に迫る、鋭く冷徹なまでの心理描写から読後感に嫌な気分が残る…。そこから付けられた異名は〝イヤミスの女王〟。先月刊行された湊かなえさんの新作『人間標本』(KADOKAWA)は間違いなくイヤミスの女王にとっての新境地。表紙の帯に刻まれた「さらなる覚醒」という文言は大げさではなく15周年記念作にふさわしい。
「たとえ、ハッピーエンドでなくても読んだ後、心から面白かった…。そう言ってもらえる最高傑作が書けました」と自信作の手ごたえを語気を強めて言葉にした。
《人間も一番美しい時に標本にできればいいのにな》
新作は「私」のこんな独白で綴られる〝予測不能〟なミステリーだ。
「私」の独白は続く。
《…蝶の目に映る世界を欲した私は、ある日天啓を受ける。あの美しい少年たちは蝶なのだ。その輝きは標本になっても色あせることはない。五体目の標本が完成した時には大きな達成感を得たが、再び飢餓感が膨れ上がる。今こそ最高傑作を完成させるべきだ。果たしてそれは誰の標本か。――幼い時からその成長を目に焼き付けてきた息子の姿もまた、蝶として私の目に映ったのだった》
デビュー作『告白』も、2022年映画化され劇場公開された『母性』も。これまで母と娘を主人公にした物語を数多く手がけてきた。
だが、この男性である「私」の独白を読み進めていけば、新作は父と息子の物語が軸になって描かれている、と理解できる。
「私の読者は女性ファンが多いと言われていますが、実はサイン会に来てくれるファンは男女半々なんです。2023年に開いたサイン会に来てくれた男性から『父と息子の物語も読んでみたい』と言われました。私自身、ずっと書きたいと思っていたテーマだったんです」と打ち明ける。
もう一つの重要なテーマは蝶の標本。
「蝶に見えている世界は、人間が見ている世界とはまったく違うんですよ」と湊さんは言い、「人間には見えない紫外線が見える蝶の独特な色の世界」について詳しく説明してくれた。
標本の作り方も詳しく調べたという。
「実際に蝶の標本も手に入れました。アクリルケースの中の蝶の標本は、見る角度によって、その美しさがまったく違って見えるんです」
蝶の種ごとに違う生態や特徴も詳細に綴られる。そして、その蝶たちが、それぞれ乗り移ったかのような少年たちの独特の特徴、性格なども詳細に綴られ…。
「生きている蝶や、その標本の美しい色が鮮明に映像として目の前に浮かびあがるまで想像し、その映像を詳細に文字で書き記していく…。そんな執筆作業でした」
ベストセラー小説を原作に数々の映画化、ドラマ化が繰り返されてきた。連続ドラマの脚本も手掛けているだけに、映像と活字との親和性には強いこだわりがある。
読み手の想像を軽く超えていく驚くべき展開、スピード感あふれるストーリー・テリングの力。読み始めるとページをめくる手が止まらない。ぐいぐいと一気に引き込まれていく…。
そう伝えると、「目次はあえてつけていません。分量は原稿用紙で計約400枚。これまでの経験から割り出した枚数なんですよ」と、「意図した通り」に一息で読み進むことができる手法が駆使されている。
初めての休養
前作『ドキュメント』の刊行直前。湊さんを取材し、「月刊神戸っ子」2021年4月号の「物語が始まる」で紹介した。
このとき、湊さんは「この春から一年は執筆活動を休もうと思っているんです」と、〝休業宣言〟していた。
「デビュー以来、ずっと休まずに書き続けてきたので、もういくら搾っても搾っても搾りカスさえ出てきませんので…。少し休養し、好きな登山をしたり、語学を学んだりしながら次の執筆のために備えたい」と話していた。
「十分に休めましたか?」と聞くと、「それが、すでにその年に放送されるテレビドラマが予定されていて、原作を頼まれて、2021年は休めなかったんですよ」と苦笑しながら打ち明けた。
「その代わりに、翌2022年は一年間、執筆活動を休ませてもらいました」と語る。
そして2023年。「サイン会を行っているときにふと気づいたんです。今年は15周年記念の年なのに新刊がないぞ、と。小説家にとってファンへの感謝は新刊を出すこと。今年中に新刊を出さないといけない…とあせり始めました」と笑った。
次は「無敵の女王」宣言
小説家としての執筆活動の本格的な再開だった。
2023年3月、新刊『人間標本』の執筆に着手した。
「何とか年内中に出そうと意気込んだのに6月末までに書きあげたのは原稿用紙で約100枚。残り300枚もあるのか…」
あせる思いを募らせながらも、「8月には行きたかった登山へ出掛け、9月はサイン会やファンイベントのためにインドネシアを訪れました」と苦笑しながら明かす。
だが、15年の作家生活でハードスケジュールには慣れ、ペース配分は身に沁みついている。9月中旬までに残り約300枚を無事書き終え、計400枚の長編を完成させた。
休養期間は新作にどう影響したのだろうか。
「テーマを決めて、ドラマを掘り下げて書いていた時期が長かった。でも一度立ち止まってみて気付きました。幼かった頃、江戸川乱歩のミステリー小説を夢中になってドキドキしながら読んでいた。その頃の楽しさを思い出したんです。これからは自分が本当に書きたい、読者に読んでほしいと思う小説を自由に書いていこうと…。新作ではドラマの面白さと、ミステリーの面白さを両立させたかつてない読み応えのある作品になっていると自負します」
今後の作家としての目指す方向性も気になるところ。
「40代の頃は体調面などが少し気になっていたのですが、50歳になって体調は戻り、実は今〝無敵な気分〟。60歳まで、あと10年あり、書きたいと思う小説を書き続けたいと考えています。あと何作、書けるのでしょうね…」
充電を終えたイヤミスの女王は〝無敵の女王〟となり、ミステリー界へ帰ってきた。
(戸津井康之)
湊 かなえ(みなと・かなえ)
1973年広島県生まれ。2007年に「聖職者」で小説推理新人賞を受賞。翌年、同作を収録した『告白』が2009年の本屋大賞を受賞。映画化を経て累計350万部のベストセラーに。12年「望郷、海の星」で日本推理作家協会賞短編部門を受賞。その他の著書に『少女』『贖罪』『母性』『望郷』『高校入試』『絶唱』『リバース』『ユートピア』『未来』『落日』『カケラ』など。2018年『贖罪』がエドガー賞候補となる。