1月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㉝前編 大岡昇平
大岡昇平
神戸での助走…戦争で覚醒した作家魂
神戸暮らし
小説「俘虜記」や「野火」など戦争文学の傑作で知られる作家、大岡昇平(1909~1988年)は、生まれ故郷の東京ではなく、社会人となって本拠を構えた神戸で、作家となる基盤を築いた。神戸で就職した会社で知り合った妻と結婚し、自宅を構え、家族を持ったのも神戸。終戦から3年後に東京へと戻るが、フランス語翻訳者として翻訳本を手掛けるなど、文豪としての道を歩み始めるための〝助走期間〟を過ごしたのは神戸だった。
2009年。終戦直後の日本で公開されたフランス映画「美女と野獣」(1948年)のセリフを日本語に翻訳した字幕用の原稿が約60年ぶりに見つかり、全国ニュースとして流れ、世間を賑わした。
なぜなら、その原稿の翻訳者が、戦争文学の第一人者である作家、大岡昇平だったことが分かったからだ…。
大岡は1909年、現在の東京都新宿区で生まれるが、両親はともに和歌山県の出身だった。18歳で「アテネ・フランセ」(語学学校)に通い、フランス語を習い始めた大岡は、知人を通じて評論家の小林秀雄にフランス語の個人教授を受け、小林から詩人、中原中也を紹介されるなど次第にフランス文学に傾倒していく。
京都大学文学部を卒業後、東京の「国民新聞社」に就職するが、約1年で退職。
1938年、現神戸市中央区に設立された日仏合弁会社の「帝国酸素」に転職する。ここで彼は学生時代に身につけたフランス語の能力を発揮し、翻訳係として働くことになる。
この転職を機に、神戸へ移り住んだことで、彼の人生は大きく変わり、後に小説家として活躍することにつながるのだが、神戸時代、彼は、そんな未来をまったく予想していなかった。
1939年、社内恋愛で結婚した大岡は神戸市灘区に転居し、一男一女の父となる。1943年には帝国酸素を退社し、神戸市に本社のある川崎重工に転職する。
1955年に刊行された小説「酸素」は、大岡が神戸の「帝国酸素」で働いていた頃の記憶に基づき書かれた物語だ。
小説「酸素」の中に登場する「甲山アパート」は、大岡が入社当時、下宿していた「甲南荘」がモデルで、谷崎潤一郎の「細雪」の中にも「松濤アパート」の名で登場している。阪急夙川駅の近くにあった甲南荘は、谷崎が原稿を執筆する際、利用していたというから、文学者たちに親しまれた歴史あるアパートだったようだ。
37歳からの再出発
しばらく神戸で家族と平穏に暮らしていた大岡だったが、第二次世界大戦末期、軍隊に召集され、激戦地のフィリピンへ出征する。戦場ではマラリアに苦しめられジャングルの山奥に退避している途中、米軍の捕虜となり、レイテ島収容所へ送られる。
戦後、復員船に乗って日本へ帰還すると、彼は神戸へ直行し、家族を探すが、空襲を逃れるため、妻と子供たちは明石の親類宅へ身を寄せていた。
大岡が復員後、30年以上経ってから発表した「わが復員わが戦後」(1978年)には、戦前、大岡が、神戸で、いったん「文学」と離れる道を選ばざるをえなかったこと。そして、その内面の葛藤が明かされている。
《応召に先立つ六年間、私は神戸の月給取として、文学と離れて暮していた。私の「社会」も「家庭」も、そういう簡単な利害の中におかれていた。19年の夏東京の部隊から出征する時も、私は古い文学の友達には通知しなかった。一人の文学的落後者として、私は彼等に惜しんで貰う資格はないと卑下していた。復員後突然祝いの寄せ書を貰って、私はびっくりしたものである。どうして私が帰って来たことを知ったのであろうか…》
「わが復員わが戦後」の中には、復員後、大岡が作家として再出発する決意も綴られている。
ここでも神戸時代に働いていた「帝国酸素」が絡んでいるところが興味深い。
復員直後、大岡は古巣、帝国酸素時代の元上司から連絡を受け、東京・田園調布の自宅へ招かれる。元上司に今後の身の振り方を聞かれた大岡は、こう答える。「もう帝国酸素へ戻る気はなかった」。だから、こう言った。
《なんとかなるでしょう。僕も今度は命の瀬戸際を潜って来たんで、これからはつまり余生みたいなものですからね。少し好きなことをやってみようと思ってるんです…》
大岡が口にした「好きなこと」とは文学だった。
このとき37歳。大岡の文学者としての人生がついに幕を開けた瞬間だった。=続く。
(戸津井康之)