9月号
ジャズのセッションのように… 次の百年に継承する“古美る”松泉館
六甲幼稚園の敷地の一角に佇む松泉館が、築百年を迎えるにあたり、選りすぐりの素材と一流の技で生まれ変わった。オーナーの若林さん、工事を率いた長尾さん、家具などを担当した永田さんにお話を伺った。
やればやるほど…
─松泉館には百年の歴史があるそうですね。
若林 学校法人設立からは80数年ですが、その前からここに住んでいた私の祖父が、この2階で寺子屋みたいなことをやっていたんですよ。祖父は酒造メーカー「忠勇」の創業者で、小林一三さんと親しかったそうです。
─松泉館の名前の由来は。
若林 このあたりはもともと松林で、そこを開拓したので。建物自体は大正10年(1921)に建てられました。
─なぜ修復を。
若林 先人からの伝統をしっかり残しつつ、いまの人たちにしっかり使っていただくためにはどうしたら良いかと、デザインをして頂く方を探したのですが、兄(映画監督の白羽弥仁氏)に長尾さんを紹介してもらって。まさに、長尾さんに「白羽の矢」が立った(笑)。
長尾 阪神・淡路大震災の直後、20代の頃に白羽監督の映画を観たのですが、映画の舞台が震災前の神戸の街だったんですよね。もちろん、この建物もロケに使われていました。いつか会えたらいいなと思っていたので、日本建築家協会兵庫地域会主催の講演会の講師に、僕が白羽さんに「白羽の矢」を立てたんです(笑)。きっと神戸の街をよく見ているだろうと。それがきっかけで時々、白羽さんと飲みに行くようになったんです。
若林 長尾さんに素晴らしい素案を描いていただいたので、それでやろうと。最初は建築に全く詳しくなくてそんなに力を入れていなかったのですが、左官の久住章さん・誠さん父子をお連れいただいて、良いものを見せられるとやっぱりこっちも熱が上がっていくんですよ。で、蔵は予算も納期も予定の倍以上になってしまいました。完成後は幼稚園の学童保育に活用しています。
長尾 蔵は6年前に出来上がったので、設計は7年前ですね。僕は神戸大出身なので、この前を毎日のように通っていたのですが、その頃は松が生い茂りこの建物があまり見えなかったので、修復の話が来たときは映画の舞台になった建物がまだ残っていたのだと感心しましたし、こういう建物はもう少ないですから名誉なことだと思いました。異人館を修復した経験も生かしたいなと。
若林 学童や保護者が集うことができる空間をつくりたいというだけで、ほかは特に希望はなかったですね。例えばそこの壁の色も久住さんが個性を出してくださいました。ぜんぶ職人の方におまかせ。親方(久住章氏)がずっと毎日現場に入って作業するなんて、あり得ない。
永田 いつ来てもいらっしゃるんですよ。
若林 みなさんプロ中のプロです。納期を設定せず、納得いくまで作業していただいています。
長尾 最初は蔵だけで、そこへ通じる廊下までやる予定じゃなかったんですよ。ですが廊下をきれいにして、そしたら庭もやり替えようか。庭をきれいにしたら、庭越しに見える屋根もやり替えようかと、結局範囲と予算が広がって…。
若林 やればやるほど良くないところが目立っていく。植木もやる気なかったけれど植え替えました。でもその先の茶室の手前で止めました。
永田 終わらなくなりますからね(笑)。
指示はざっくり
ジャズ的に
─修復で苦労した点は。
長尾 保存するために修復する訳でも、百年前に戻す訳でもなく、いまできる最高のことをやろうと。百年後の人に、「百年前にすごい技術で修復をしていたね」と言われたいですし、百年前のものと調和させつつ違う価値観を生み出したいんです。大正時代の雰囲気を出すために、当時のアールデコのようなデザインをベースにしながらも、いまの時代の表現を混ぜていく。その混ぜ具合が本当は一番難しいのですが、幸いそれぞれの分野で能力の高い職人がいます。ですから、僕は大まかな方針は決めますけれど、具体的にどうするかは職人さんたちと対話しながら。オーケストラの指揮者のようにすべてコントロールするのではなく、ジャズのセッションのような感じで。
─手に入りにくい素材も使っていますよね。
長尾 「古びる」のではなく「古美る」、劣化していく現代建築が多い中で、良い素材を用いることで時を経るごとに味になっていくというスタンスで考えています。窓枠などに使っているブビンガ材はとても高価で、こちらから提案できるようなものではないのですが、若林さんがいろいろ調べられて、こんなのどう?と。
─家具はもともとここで使っていた永田良介商店の家具を再生したそうですね。
永田 昔の姿に戻すのではなく、改修後の空間に合うようにという依頼でした。工事中でここが形になる前から椅子の生地を選んだり、建具の壁紙をセレクトしたり、いまだったらこうしたら格好良くなるんじゃないですかという提案をしてきましたが、ものすごく頭を使いましたよ(笑)。
若林 僕からのオーダーは「何か合うのある?」だけ(笑)。
永田 たとえばこの椅子の生地。最初赤を選んでもらっていたのですけれど、ここでもう一度話をしている中で僕が「赤やめたほうがいいですね」と。それで黄色になったんです。いろいろなプロが関わる場に、僕も関わらせてもらったのはすごく楽しい経験でした。
若林 リメイクしてここまで素晴らしいものになるということは、逆に永田さんに教えてもらったんですよ。この椅子は今回、脚の長さを足したのですが、昔短かったのはなぜかというと、畳の上に置いていたからなんですよ。
永田 そうですね、座卓のように。和洋折衷で。
若林 テーブルも低かったんで嵩を上げたんですよ。昔の人は身長が低かったから。物を生き返らせ、そこに魂が生まれると、人間の感性も良くなるし、何だか落ち着くものになる。家具も、建物もそうです。
長尾 永田さんはセッションですと、最後の奏者なんですよ。ほかが決まっていった中ですから、一番大変なんですね。ですから申し訳ないですけれど、永田さんがどう苦労するかを傍目に楽しんでいました(笑)。最初ちょっとやりとりして、この人は信頼しても大丈夫だと思っていたので、何の心配もなかったですけど。
永田 僕自身も六甲幼稚園の卒園生なんですよ。ここはもともと個人宅なので何があるのかわからなかったし、園児は入れないんですよ、何度か侵入を試みましたが(笑)。そんな場所に入って仕事をさせてもらって、ワクワクしながらやっていました。ブビンガみたいな個性の強い木を使っていたので、ありきたりの提案では「面白くない」と言われるだろうし、普通の感覚でやってもアカンなと(笑)。
子どもたちに本物を
─出来上がった感想はいかがですか。
若林 先祖が遺したものに、日本を代表するプロ中のプロが手を加えると、こんなに素晴らしいものができるんだなと、自分が毎日ここに入るたびに思います。あとは、ここではいろいろなお教室に貸しているのですけれど、講師や生徒のみなさんも落ち着いて、幸せになれる。「ありがとうございます」と心から言ってもらえる。何かそういう力が、空間にあるのだと思いましたね。時間が経つと味わいが増すので、まだ完成ではなく、これからもっと良いクオリティになっていくのが楽しみです。子どもたちに本物を五感で感じてもらうのも教育、いろいろなものを比べる基本になるのではないかと思います。
長尾 本物を、本物の職人が手がけた訳ですが、今回も学生からプロの職人までいろいろな人が作業を見学に来ましたけれど、こういうプロジェクトがあると技術の伝承にも繋がるんですよね。
永田 修復するだけでなく、ブラッシュアップしていまできる最高の提案をしていくことは、僕も、うちの職人も勉強になりました。永田良介商店は今年で創業150年になりますけれど、〝継承する〟という感覚ではなく、〝毎回創業する〟という感覚で挑戦していかないと次の代に繋いでいくのが難しいと父が言っていましたが、その通りだと思います。古いものを守り続けるだけでなく、時代時代に合わせてできることを考えることも大切だと思いました。
若林 この壁の中の柱に、スタッフの名前が書いてあるんですけれど、また百年後、ここを修復するときにそれが出てくるでしょう。文化財指定は目指さずに、いろいろな活動で使ってもらって、ここで何かを感じてもらいたいし、笑顔で帰って欲しい。そういうところであり続け、みなさんと一緒に文化の継承の場を創り上げていって、次の百年を迎えたいですね。
若林 純仁
(わかばやし すみひと)
学校法人松泉館
六甲幼稚園 理事長
1966年生まれ。近畿大学経営学部卒業。1990年総合商社に入社、10年勤務の後、2000年に同法人事務長職の後、2018年理事長に就任、現在に至る。学校法人松泉館は祖父が設立し現在、私立六甲幼稚園、認定こども園北六甲幼稚園、認定こども園六甲藤原台幼稚園を運営する
長尾 健
(ながお けん)
一級建築士
株式会社いるか設計集団
代表取締役
1967年西宮市生まれ。1993年神戸大学大学院工学研究科修士課程修了。1993年〜2000年㈱いるか設計集団。2000年〜2022年長尾健建築研究所代表2022年〜㈱いるか設計集団代表取締役
永田 泰資
(ながた たいすけ)
永田良介商店 六代目
1985年生まれ。早稲田大学商学部卒業。大手住宅メーカーに勤務後、2014年に家業である永田良介商店で働き始める。2020年より代表取締役に就任。独自の世界観で家具だけでなくインテリアをトータルで提案している