10月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から65 豆絵巻
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
8月号に新しく出した本『縁起・小墓圓満地蔵尊』のことを書いた。
その本に登場する重要人物に、元椿本チェインの社長会長を務めた故大村利一氏があり、地蔵さんの敷地の地権者の一人である。
この本が完成して豊中市にお住いのご遺族にお送りした。すると利一氏のお孫さんが西宮までやってこられ、まず駅から近い西宮神社を訪問された。本には大村家が江戸時代に神社に寄進した燈籠のことを記している。そこを権宮司に見せて確認されたのだ。しかしその燈籠は阪神大震災で倒壊してしまっていた。小さな傷なら再興できたが、叶わなかったと。その時「これはいい本ですねえ」と言われたと。
ということで、権宮司からわたしのところに電話があり、本を所望され、直接届けに行った。
いただいた名刺には吉井良英とある。わたしは尋ねた。
「もしかしたら権宮司は、昔の権宮司の吉井貞俊さんのご子息ではありませんか?」。
20年前に出した拙詩集『コーヒーカップの耳』と縁があったのだ。
詩集の出版記念会会場の候補の一つが、実現はしなかったが西宮神社の「神社会館」だった。また詩集はある人(宮崎修二朗翁だが)の縁で吉井貞俊さんにお贈りした。すると見事な毛筆で感想のお便りをいただいた。さらに、氏の手になる「阪神スケッチ散歩」という絵巻物の縮小コピーが同封されていた。これは当時、大きな話題になっていたものである。一九九九年の新聞記事にこう書かれている。
《商売の神様「えべっさん」で知られる西宮神社の吉井貞俊権宮司が、震災後と5年目に阪神電鉄本線西宮―元町駅間約十五キロの沿線の景観を克明にスケッチし、絵巻にまとめている。(略)長さ四十五メートルに及ぶ大作で、震災の街なみの変化を伝える貴重な資料となりそうだ。》
後にこの絵巻物を含めた吉井貞俊氏の個展が神社会館で催され、わたしはそれを見ている。その時、体調を損ねておられた権宮司は入院先から一時外出して会場におられたが、歓談にお忙しい様子で話す機会を失った。それが氏を見た最後だった。
このことを『縁起小墓圓満地蔵尊』の編集者の水間貴保氏に話すと、「その絵巻物は豆絵巻になっています。わたしも編集に関わりました。今回のお地蔵さんの本とともに最も力を尽くしたものでした」とのこと。驚いた。
実は貴保氏は、わたしの長男の小学校時代の同級生でもある。やはり、人の縁の不思議を感じてしまう。
その豆絵巻、貴重な残部の中からお譲りくださった。何冊かの豆本は所持するが、豆絵巻は初めて手にする。
『阪神大地震図巻』と題されて「直後図巻」と「五年図巻」の二巻一組。それが一個の箱に収められている。箱の大きさは35×40×65ミリ。掌の中にすっぽりと納まってしまうかわいいものだ。しかし広げてみると、長さ5メートルを優に超える。ところが幅はたったの32ミリ。その中に被災したビルや民家などの姿が詳細に並んでいる。
その「あとがき」に注目。わたしの肉眼ではとても読めない。一般的には使われることのない5ポイント弱の文字。こんなことが書かれている。
《阪神電車の車窓から見える街の様子(どうして道路でなく電車沿いかというと、家々の裏側が見えるから)を描いておけば百年後二百年後の人たちが興味を持って見てくれるだろうと実行したのが昭和62年のこと。ところが百年はおろか8年後にすっかり崩壊してしまったのには全く驚いてしまった。(略)これは後世に残さねばと災害実景をチェックした。(略)階下の部屋がつぶれ、二階が落ち込んで道路に立ちふさがっている家が多く、中にはその二階の側壁がすっかりはずれて、娘さんの勉強部屋であろうか、机、本棚がそのまま道に向かってさらけ出されている家があるかと思えば、階下にあった茶の間、それは厳冬のこととて、腰掛式の炬燵が部屋の真ん中にしつらえてあり、住んでいた時そのままに薬缶が転がり、茶碗が散乱したままといったところが次々と展開していた。正月のこととて壁には子供の書初めも貼り付けられてある家もあり、瓦解した玄関先に逝かれた家族への手向けの花であろうチョコレートの箱も添えてお供えがなされてある(略)》
絵を描く人の眼だ。あの時のことが生々しく蘇ってくる。
ということで、わたしの書棚を珍しい書物が飾ることになった。このような縁をなんと呼ぶべきか。仏縁ならぬ神縁か。
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。西宮芸術文化協会会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)ほか。