10月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~⑱島田叡後編
「私は何としても沖縄県民を守らねばならない」…
島田叡の魂は風化せず
「明朗にやろう」
第二次世界大戦で激戦地となった沖縄では県民の4人に1人が命を落としている。大阪から〝戦中最後の沖縄県知事〟として赴任した島田叡は「一人でも多くの命を救おう」と着任早々、次々と行動に出る。困窮する食糧確保のため、単身、台湾に乗り込み米を調達したり、疎開を促進したりするなど「県民の命を守るため」に可能な限りの施作を考え、陣頭指揮を執る。神戸で生まれ育ち、東大を出てキャリアとなった島田の知事としての在任期間はわずか5カ月。だが、10万人以上の命を救った島田を、今も多くの沖縄県民が慕い、その生きざまは代々語り継がれている。
「何よりも明朗にやろう!」
着任早々、島田は集まった県の職員たちにこう訓示した。米軍上陸間近の緊迫した状況下、こんな場違いとも思える島田の明るさに、逆に職員たちはこう悟ったという。
「新しい知事は死ぬ覚悟で沖縄へやって来たのだ」と。そして自分たちもこう覚悟した。「この人となら運命を共にできる」と。
那覇市の県庁を離れ、南へ南へ…と島田は県民を引き連れ、南の塹壕に設けた〝臨時県庁〟を転々とした。
しかし、どれだけ避難しようと米軍の包囲網から逃れることはできない…。
塹壕では食料も尽き、島田は「生き残った県民の命を守るため」に最後の決断を下す。
「今をもって沖縄県庁を解散する!」
こう宣言し、彼は塹壕を出て行った…。
別れの際、彼は職員たちにはこんな言葉を伝えて回った。「皆は投降してくれ。米軍は殺しはしないから…」と。
「皆は生きてくれ」
島田の人生を描いたドキュメンタリー映画「生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事―」が今年公開された。その中で、元県庁職員、山里和江さんはこんな証言をしている。
島田から「君は生きるんだよ」と言われたが、彼女は当時、「その言葉の意味が理解できなかった」と言う。なぜなら、そんなことを口にするのは「非国民」で、行政の最高責任者が、この言葉を口にしたことが信じられなかったのだ。
山里さんは当時18歳。県の防空監視隊に所属し、周囲の大人の中で、「生きろ」などと言う者は一人もいなかった…。
だが、戦後、山里さんはこう考えるようになる。
「長官(島田)は一人でも多くの住民を生かそう、助けようと考えたのだ。子供だったからあのときは分からなかったが、それがわかってからは、これはもう生かされたのだから、命ある限り、長官のことを語り継いでいかなくてはならないと思うようになりました」
1951年、沖縄戦を生き抜いた島田の部下たちが、米軍の攻撃にさらされた沖縄戦終焉の地・糸満市の「摩文仁の丘」に、沖縄戦で亡くなった県庁職員と島田の慰霊碑「島守の塔」を建立した。
島田とともに塹壕で過ごした元職員たちが寄付金を集め、各々が鍬を手に取り、この記念碑を立てたのだ。
映画「生きろ~」の公開を遡ること8年前。TBSの報道ドラマ「生きろ~戦場に残した伝言~」が放送されている。
この番組を作ったプロデューサーは、一人の先輩記者から「島田叡を知っているか?」と問われ、以来、島田に興味を持ち、取材を進める中で番組制作を決意したという。
さらに、この放送から遡ること27年前。先の先輩記者は1986年、政治部記者として沖縄戦没慰霊式典を取材中、島田の慰霊碑を見つけた。
「なぜ、知事だった島田の慰霊碑がここにあるのか?」。当時、まだ、この記者は島田のことをよく知らなかった。選挙取材で偶然、記念碑を見つけたのだ。沖縄選出の国会議員にその理由を聞くと、「あなたは本当に知らないのか?」。怪訝そうに議員は問い返し、島田について語り始めたとたん泣き出した。
「あの時代に、沖縄県民のことを真剣に考えた本物の人物が生き残れず、そうでなかった人物が生き残った。こんな理不尽なことはない…」。そう言いながら、議員は声をあげて泣いたという。
「断面敢行鬼神避之」
断固として実行すれば、あらゆる困難は越えられる―。司馬遷が「史記」に記した言葉だ。
高校球児の頃から、彼はこの言葉を好んでよく使っていた。仲間や己を鼓舞するために。
県庁解散を宣言した島田は、最後に出会う県民たち一人一人に、強くこう語りかけ続けて回った。
「これからあなたたちは自由です。どうか沖縄のためにも、皆、生き長らえてほしい」。一方で、自決を決意した島田だったが、知事としての仕事はまだ放棄してはいなかった。
1945年6月26日。海岸線の方へ向かって歩く島田を見た軍医の証言を最後に彼の消息は途絶えた。
島田の腕には「沖縄県知事」の腕章が巻かれたままだったという。
=終わり(次回は川西龍三)
(戸津井康之)