1月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~⑨建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ前編
未来へ託したヴォーリズの教育理念
重要文化財に指定された神戸女学院の校舎や大丸神戸店の別館など神戸や兵庫県内には、建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964年)が設計した名建築物が数多く残されている。実業家としても知られる彼は、滋賀県で薬品メーカー「近江兄弟社」を創設。軟膏のメンソレータム(メンターム)を日本に普及させたことでも有名だ。また、教育者でもあった彼は、滋賀県の公立小学校の設計にも携わっている。斬新な米国スタイルの設計で名を馳せた彼が、なぜ、田舎町の質素な小学校の建造に関わったのか。その背景に壮大な物語が隠されていた事実を知る人は今、どれほどいるだろうか。
教育者の視点からの建築
「湖東」と呼ばれる琵琶湖の東側の地域にある人口約7千人の小さな町。滋賀県豊郷町に、第二次世界大戦前の1937年、ヴォーリズが設計した小学校が建てられた…。
そこから遡ること57年前。1880年、米カンザス州でヴォーリズは生まれた。幼い頃に洗礼を受けた彼は、敬虔なキリスト教徒として育ち、建築家を目指す。大学の哲学科で学んだ後、1905年、伝道師、そして教師として来日。滋賀県近江八幡市の現県立八幡商業高校に英語教師として赴任する。
建築家として当初、彼は教会の設計などを手掛けていたが、同時に大学や病院、銀行、邸宅などの設計も積極的に行い、設計した建造物のジャンルは多岐にわたった。
明治末期から大正、昭和にかけて、彼が日本に〝西洋建築の美〟をもたらした功績は大きい。
兵庫県の神戸女学院や関西学院大学をはじめ、京都府の京都大や同志社大、東京の国際基督教大など。彼が設計した校舎や図書館、チャペルなど教育施設は日本全国に残され、今も現役で学生たちの学び舎として活躍している。これは教育に懸けた彼の熱意の証しといえるだろう。だが、実は彼は来日後わずか2年で英語教師を解任されている。
当時、キリスト教の伝道を良しとしない日本の田舎町での確執が理由とされる。だが、彼を師と慕う子弟は多かった。
教師解任後、県立八幡商業高校の校舎は改築されるが、その際、設計を担当したのがヴォーリズで、現在もこの校舎は残っている。
同校は今日の日本経済を築いた〝近江商人〟と呼ばれる滋賀県出身の実業家を数多く輩出し、「近江商人の士官学校」の異名を誇った。
総合商社の伊藤忠と丸紅を日本を代表する世界的企業に築きあげ、また、神戸の甲南大学創設に尽力した伊藤忠兵衛(二代目)も同校で学んだ近江商人の一人である。
ヴォーリズは教職を解かれた後も日本に残った。彼に感化された師弟たちは、世界へ開かれた視点を抱いて育った。
ヴォーリズと近江商人の師弟を結ぶ〝絆〟と呼べる象徴的な建造物がある。
伊藤忠兵衛の生まれた豊郷町に建てられた豊郷小学校である。
東洋一の小学校
広い校門を通り、木々が建ち並ぶアプローチを抜け校舎の玄関へ入ると、左右両端まで見渡せる一直線に延びた廊下が続く。廊下に張った木の板は頑丈で、足の裏から伝わる感触が心地よい。廊下に沿って一直線に並ぶ教室は、窓もドアもすべてが大きく作られ、開放感に満ちている。晴れた日は太陽光が降り注ぎ、大きな窓を開けると心地よい風が窓から廊下へ吹き抜ける。
「こんな素晴らしい小学校は、これまで見たことがない…」
筆者が新聞記者として大津支局に赴任し、初めて豊郷小を訪れたとき、こんな驚きと衝撃を受けたことを今も忘れない。それまで取材で全国各地の数多くの小学校校舎を見てきたが、この豊郷小で体感したような感動は後にも先にもない。
なぜ、この校舎が他の小学校とは違うと感じたのか?
大津支局に赴任した3年半の間に、その理由を痛いほど思い知らされることになる。
この建物は、ヴォーリズが教育者としての信念を注ぎ、第二の故郷、日本の豊郷で設計した〝特別な小学校〟だったのだ。だが、創設から63年後。この校舎建て替えをめぐり、日本中が騒然とする事態へ発展することをヴォーリズは想像もしなかっただろう。
(後編へ続く)
戸津井康之