10月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~⑥嘉納治五郎後編
文武両道を体現した嘉納治五郎の有言実行
スポーツ外交の礎築く
講道館柔道の創始者、嘉納治五郎は武道家であると同時に教育者としても知られる。神戸の灘中・高校の創設者であり、現筑波大学の校長を長年務めるなど、日本の教育に広く貢献した。「文武両道」という言葉をこれほど分かりやすく体現した日本人として、彼ほどの適任者はいないかもしれない。さらに彼が目指した頂は高く、その視点は常に遠く世界へ向けられていた。スポーツ外交の先駆者として尽力し続け、東京五輪誘致のために晩年を捧げた。
1909年、嘉納は日本人として初めてIOC(国際オリンピック委員会)の委員に選ばれている。東洋人として初の快挙で、欧米人中心だった五輪の歴史に風穴を開けた瞬間でもあった。
まだ明治の頃。スポーツ後進国であり、外交下手だった日本の中で、彼が孤軍奮闘しながら、日本の威信をかけ、欧米をはじめ世界を相手に戦っていた事実を、現代日本人はどれほど理解しているだろうか。
嘉納が日本のスポーツ外交のリーダーとして奮闘する姿は、ベテラン俳優、役所広司が熱演した国民的ドラマで昨年、多くの日本人が再注目することとなる。
64年、日本で初めて開催された東京五輪の招致をテーマにしたNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」(2019年)で、役所は嘉納の晩年の姿を演じた。
IOC委員となった嘉納が、欧米人を中心とする委員と粘り強い交渉を続けた結果、遂に40年の東京五輪招致に成功する。日中戦争により、返上することになるのだが…。
「これから一番面白いことを東京でやる!」。こんな決意を胸に、38年、カイロで開かれたIOC総会に乗り込み、嘉納は反対意見を説き伏せ東京開催を勝ち取るが、客船で日本へ帰る途上、肺炎のため、海の上で死去する。
悲願だった東京五輪は、彼の死から26年後、1964年にようやく実現する。
ドラマの主人公の一人、阿部サダヲが演じた、後に日本水泳連盟会長となる田畑政治は嘉納の死に接し、こう決意する。「私があなたの夢を必ず実現させます…」。有言実行の嘉納に多大な影響を受けた田畑が、嘉納の遺影に誓う姿が感動的に描かれた。
日本のスポーツ競技者が世界を相手に戦う姿は今日、珍しくなくなったかもしれない。だが当時、嘉納のように五輪の日本開催を公然と口にする者などいなかった。
新型コロナウイルスの影響で、今年夏に開催予定だった東京五輪は延期された。
「来年の夏、本当に開催できるのか?」と現在、また日本人が自信を失いかけている。もし、嘉納が生きていれば、どんなリーダーシップを発揮していただろうか。
講道館精神は永遠に
1882年、講道館を設立した同じ年、嘉納は学習院教頭に就任。93年から約25年間にわたり、現筑波大学で校長を務めた。
そして1927年、故郷・神戸で現在の灘中・高校創設に尽力し顧問を務めた。灘中・高校が校是として掲げる、「精力善用」、「自他共栄」は、嘉納が講道館の精神として唱えた教えでもある。
「文」と「武」という言葉は対極にあるように使われているが、嘉納にとって文と武は対局にある概念ではなく、ともに人格を磨き、極めていくために欠かせない大切なテーマだったことが彼の生き様からも分かる。
柔道五輪金メダリストから総合格闘技に転身した吉田秀彦を、その試合直前に取材したとき、彼が筆者の問いに答えた言葉が今も脳裏に焼き付いている。
「近年、日本柔道は五輪で苦戦し、世界で勝てなくなっている。日本と世界の柔道のルールが変わったからだともいわれているが?」と聞くと、彼は平然とこう答えたのだ。
「確かに日本と世界の柔道のルールは変わったかもしれない。しかし、どんなルールでも日本柔道は勝たなければならないのです」
総合格闘技で戦う彼は、それまでの柔道の試合では見せたことのない締め技や関節技を繰り出し、柔道ファンを驚かせた。だが、彼はこう言い放った。
「すべての技は講道館の有段者が身につけている技。いつでも出せますよ」と。
柔術から受け継がれた野武士のような魂、常識に縛られない自由な発想…。文武両道で心身を磨きあげ、世界を相手に戦い続けた嘉納の遺伝子は、講道館の弟子たちに受け継がれている。そう確信した。
=終わり(次回は白洲次郎)
戸津井康之