3月号
Tadanori Yokoo|神戸で始まって 神戸で終る ②
美術家 横尾 忠則
元町の喫茶店の2階で「きりん会」のグループ展を開催中に、郷里の西脇の自宅に一通の葉書が舞い込んだ。葉書の内容は神戸新聞宣伝技術研究室からで、一度会いたい、というような内容であった。
神戸新聞社の寺尾竹雄さんと山陽電車宣伝部に勤務していたデザイナーの灘本唯人さんが元町通りを歩いていた時、2人が急に喉が乾いた。「どっか喫茶店があれへんやろか」と会話を交している時にたまたま目に入ったのが、「きりん会」のグループ展を行っている喫茶店であった。
「ほな、ここに入ろうか」
「何や展覧会をやってるやんか」
そんな会話を交わしながら、灘本さんが関心を持った作品が僕の絵だった。
「寺尾さん、この子面白そうやから、宣伝技術研究室に入れたらどう?」
という灘本さんの意向で、僕は元町にあった神戸新聞宣伝技術研究室に入ることになった。もしこの2人が歩いている時に喉が乾かなかったら、僕はスカウトされなかったのである。グループ展にはポスターを出品したが、デザイナーを志望していたわけではない。趣味で絵を描いていたわけで、将来絵で身を立てようなんてこれっぽっちも考えていなかった。僕の性格はひとりっ子で育ったせいか、自主性に乏しく、人のいいなりになることに全く抵抗がなかった。
高校時代は郵便マニアだったので、できれば郵便局に勤めたいと思っていたが、高三になった時、校長先生と担任の先生が、「郵便屋になるより美術大学へ行き」と言ってほとんど強引に僕の去就が決められてしまった。ところが、受験のために上京して、いよいよ明日が受験日だという前夜、高校を退職していて東京に住んでいた美術の先生が、「明日の受験は中止して郷里に帰りなさい」と言った。理由はわからなかったが、先生なりの考えがあり、悩んだ結果の指摘だったように思えた。人生の岐路が決まる大事な瞬間なのに、僕は先生の意見に簡単に従うほど主体性のない少年だった。美術学校に進学するのも受験を断念するのも全て第三者の意志に従ったわけで、神戸新聞に「来い」と言われれば。それに従うべきだと考えていた、そんな優柔不断なところが先天的に僕の性格を形成していた。
それにしても、人生は不思議というか、神秘だと思う。あの時の2人の生理状態が僕の人生に強く関与したわけである。「入れ」と言われて入った会社が僕にグラフィックデザイナーという職業を方向づけたわけで、この職業が僕に適しているかどうかは未知であった。デザイナーとしてやっていけるかどうかは全く自信がなかった。第一、デザイナーという職業がどんなものであるかも知らない。僕を採用した神戸新聞の上司のデザイナーに従えばいいわけで、僕がデザイナーとして適正であるかどうかは僕の問題ではなく採用した会社の問題だから、僕は気が楽であった。
こういう先天的な受け身の資質が自分の個性であるから、自分で変な野心とか野望をもつ必要がなかった。ただ絵を描くのが好きだったから、与えられた仕事のテーマをあれこれ考えて作品化する楽しみというか喜びだけで仕事ができた。仕事場には僕と同年の若いデザイナーがいたが、彼はデザインの専門学校を出ていただけに、いかにも格好いいデザイナーに映った。デザイナーとしては素人の僕に彼は色々教えてくれた。彼はどちらかというと抽象デザインが得意だった。僕は具象的な絵が好きだった。そんな僕のスタイルはイラストレーションと呼ぶカテゴリに属するということも、この仕事場で知った。
僕を推薦してくれた灘本唯人という人は、神戸のデザイナーの中でも一目置かれた信頼されたデザイナーであったらしい。そんな人のお目にかなった僕は喜ばなければならなかったが、どう喜んでいいのか、この神戸のデザイン界がどのようなものなのであるのかさえ、十分熟知していなかった。灘本さんはよくこの宣伝技術研究室に来ていた。室長は日本宣伝美術会という全国的組織の会員で長谷正行という有名なデザイナーであった。日本宣伝美術会員に推挙されると全国的にも評価されるデザイナーとして信用されるのであった。
毎年、夏になると日宣美展というのが東京で開催され、関西にも巡回される。だから若いデザイナー達は、この公募展に出品して入選を競う。まして入賞でもすれば、一躍スター的存在になり、若いデザイナーからは憧れの的になる。
僕が宣伝技術研究室に入った年の夏だったと思うが、ある日灘本さんが来て、「横尾君も日宣美展に出品したら?」と言ってくれた。サイズはB全。こんな大きいポスターなど描いたことがないが、神戸の若いデザイナーを応募するという。デザイナーになる野心がそれほどなかったが、灘本さんと交友が結べると思うと、灘本さんの意思に従って出品してみようと、会社が終わってから、ポスターを描くことにした。やはり観光ポスターがいいと思って、京都の竜安寺をテーマにして画面の中央に石を描いてその周囲に渦巻状の模様を線で描いた。それ以上何をしていいかわからなかった。そこに灘本さんがやってきて、
「もう描いたんか、何やこれ?わからんわ」ちょっと天地逆にしてみて、「あっ、わかった、蚊取り線香のポスターか?」
「違う、竜安寺の石庭や」
「石庭には見えへん。鳴門の渦にしか見えへん。ローマ字で『NARUTO』と書いて出品しい」
そう言われた以上逆らうわけにいかん。しゃーない『NARUTO』と書いて出品した。数日後、灘本さんが来て
「日宣美展、どうやった?」
「落選しました」
「そーか、やっぱり落選したんか、そりゃ落ちるわな、アッハッハッハ」僕も一緒になって笑った。
宣伝技術研究室は元町の大丸百貨店の筋向いの角のビルが近畿広告社で、その4階にあったように思う。西脇から電車で通うためには、始発の5時代に乗らなきゃいけない。ところが会社には8時に着く。当然誰もいない。最初の頃は会社の周辺を散歩していたが、それも飽きる。社員が出社するまで、時間があるので皆んなの机を雑巾で拭いたり、散らかっているのを少し整理しながら時間をつぶしていた。
ある時、室長の長谷さんがいつもより早く出社してきた。その時、室長の部屋を掃除している最中で、叱られると思って小さくなっていた。すると長谷さんは
「君か、いつも机をきれいにしてくれているのは」
それ以来、長谷さんは僕の在籍中、何かにつけて面倒をみてくれるようになった。
この頃、三宮駅前に七階建ての県下一番の高層ビルだという神戸新聞会館が建造中だった。今では考えられないが当時(1956年)、七階建ての建物は高層ビルだったのである。この建物は県下一の新名所となった。この輝かしい神戸新聞会館に勤めているというだけで、僕を見る郷里の人達の目が変わった。両親も鼻高々で、郷里で衣料品の行商をしていた父などは、息子が神戸新聞会館に勤めているというだけで、商売にもいい結果が出たと言って喜んでいた。
元町にあった宣伝技術研究室も新聞会館落成と同時に全員、新築されたビルの六階に移り、名称もマーケティング部宣伝技術課と変更された。新聞会館に移ると同時に神戸で一人暮らしをしたいと考えた。新聞社の広告部のデザイナーの羽松隆さんが、自分の家の一間を貸すと言ってくれた。小さな一軒家の二階の一間が僕の部屋に与えられた。両親は僕が神戸で下宿することになったために大変淋しがって、しょっちゅう手紙をくれた。下宿の羽松さんの家は布引の滝の近くにあったので、三宮までは徒歩通勤に変わった。
郷里の西脇から通勤していた時は、早朝に母が作ってくれた弁当を持ってきていたが、下宿になってからは会社の地下の社内食堂でうどんとか卵ご飯を食べていた。時たま外食することもあった。ここで食堂で大失敗したエピソードを紹介しよう。ある日会社が引けて下宿に帰る途中、新装開店したばかりの食堂に入ってみた。客は誰もいないでガランとしていた。食事代は極力始末していたので、シャケとご飯を注文した。西脇では鮭のことをシャケという。神戸ではきっと鮭というのだろうと思って、「サケとご飯」と注文した。持ってきたのは銚子と酒づきとご飯だ。
「エッ!」と思ったが、「酒ではなくシャケなんです」と言えばいいのに、恥ずかしくて訂正ができない。店員の女性2人が興味深々と僕を見つめている。「ご飯と酒をどないして食べはるんやろ」という興味だ。僕は酒が一滴も飲めない。だけど注文した以上飲んだふりをする必要がある。店員の視線をはずさせて、その間に銚子の酒を灰皿の中に捨てようと思った。だけど彼女たちの視線は僕に釘づけになっている。丁度店員が立っている頭上の棚にテレビがある。僕はそのテレビを無中になって見ている振りをした。すると彼女達も気になって頭上のテレビを眺める。その間に銚子の酒をさっと灰皿に流し、おかずなしのご飯を無理矢理口の中にほうばる。こんな行為を何度か繰り返して、やっと銚子を空っぽにして、ご飯もたいらげて、逃げるようにしてお金を払って外に出た。そんなこと気にする必要がないのに後から追っかけられたらどうしようと走るように逃げた。
なんて馬鹿げたことをしたものだろう。はっきり「酒と違います、シャケです」と一言いえばいいのに田舎者だと思われるのが恥ずかしくて言えなかったのだ。
もうひとつ食べ物の失敗談を話そう。元町のガード下に食堂があってよく行った。この店は労働者風の人達で結構繁昌していた。僕はここでうどんとご飯を食べた。いつもお店の人が大きい声で、「オオモリ!」と叫んでいる。「オオモリって一体どんなものだろう、今日はそのオオモリというのとご飯を注文してみよう」と思った。
期待に胸膨らませて、「オオモリ」が来るのを待った。そして持ってきたのは、いつものご飯ともうひとつ山盛りにしたご飯だった。「ヘェー、これ何?」と言ったら、「ご飯とオオモリです」と言った。「そうか、オオモリとはご飯の大盛のことか」とやっとわかったが、ご飯を2杯も食べられないが、おかずを注文する予算はオオモリで使ってしまったので仕方ない。おかずなしでご飯だけを2杯食べて店を出たが拷問だった。神戸は僕にとっては大都会である。田舎コンプレックスと恥ずかしがり屋のため、言いたいことも言えず黙って言葉を飲み込むしかない。このようなコンプレックスは全てストレスになるが、あらゆる失敗を繰り返しながら少しずつ神戸に慣れていくしかなかった。
(つづく)
美術家 横尾 忠則
プロフィール
よこおただのり 美術家。 1936年兵庫県生まれ。ニューヨーク近代美術館、パリのカルティエ財団現代美術館など世界各国で個展を開催。旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞、小説「ぶるうらんど」で泉鏡花文学賞、「言葉を離れる」で講談社エッセイ賞受賞。「病気のご利益」(ポプラ新書)が2月12日に刊行される。現在、横尾忠則現代美術館にて「兵庫県立横尾救急病院展」を開催中。(5月10日まで)
http://www.tadanoriyokoo.com