3月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から ㊻ 大岡信氏の書状
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
数年前になる。宮崎修二朗翁が一万冊に及ぶ蔵書をすべて処分されたのは。わたしは少なからぬ衝撃を受けたのだが済んでしまったことは致し方ない。ただ、本よりも資料の類が惜しいと思った。処分されたのは本だけではなかった。たくさんの文人からの書簡も含まれていた。本については、今ではネットによって大抵のものは入手可能だ。しかし個人的書簡の再入手はほぼ絶望。
ただし、わたしはそれより前に、翁から多くの文人書簡を託されている。兵庫県文化の父と呼ばれる富田砕花師の書簡は三百通を超える。他にも田辺聖子や杉本苑子、竹中郁など著名文人のものが百通では納まらない。ところがだ。かつて翁はこんなことを話しておられた。
「大岡信氏からの書状があります」と。しかも毛筆による巻紙状のものだという。
大岡氏といえば朝日新聞のコラム「折々のうた」を1979年から2007年までの28年間、休載期間を挟みながらも毎日連載した詩人。文化勲章受章者でもあった、そんなすごい人からの巻紙の書状とはいったいどんなものかと思っていた。しかしどうやらそれも流出したようであった。まことに惜しいことである。
本誌、2013年9月号に、わたしは「厄除け詩集」と題して書いている。井伏の有名な『厄除け詩集』にはタネ本があって、それを最初に見つけたのが宮崎翁だったと。あの詩集は井伏独自の訳ではなかったことの証のタネ本のこと。その一部。
《(宮崎翁の話)「昭和60年頃のことでした。講演で佐用町に行った時にね、ある人から『こんなものがうちにあるのですが』と見せられたのが『臼挽歌』(潜魚庵)という本でした。これを見て驚きました。井伏の『厄除け詩集』とそっくりそのままの訳詩が並んでいたんですよ」
宮崎翁は井伏氏逝去後、この『臼挽歌』のコピーを大岡信氏へ、さらに乞われて井伏鱒二研究家の寺横武夫滋賀大学教授に送られた。寺横教授はそれを論文に発表され、研究者の間に周知されることとなり、井伏の訳にはタネ本があったということが定説になったのである。》
これは日本文学史にちょっとしたさざ波を起こした事件であろう。
ということで、大岡氏からの書状というのはこの時のものに違いない。これも他の資料と一緒に処分されたと聞いて、わたしはガッカリしたのだった。
ところがだ。それがこのほど見つかったのだ。
昔に翁から託されたある資料を調べていて、紛れ込んでいるのを偶然に見つけたのだ。わたしの家に有ったということである。翁からは「これは大岡氏からのもの」と聞いた覚えはなかった。だから姿を現した時にはキツネに化かされたような気がした。
封筒の宛名は毛筆によるしっかりとした文字だ。消印の日付は切手の絵柄が邪魔をしていて読み取れない。
封筒の中には、聞いていた通りの巻紙状の書状がこれまた毛筆でしたためられている。骨太でやわらかな、人柄を表すような筆跡だ。私信ではあるが、これは日本文学史に関することでもあるので、この際全文を上げておこう。
冠省ごめん下さい もう大分時が経って
しまひましてさぞかし失礼な奴だとお思ひのことと存じます 井伏さんの「訳」
についての拙文の推量違ひに関連して
まことに貴重な「臼挽歌」稿艸のコピーを
お送り頂きましたこと本當に有難うご
ざいました 早速に御礼状をと思ひなが
ら 我と我が愚かさで多用といふ病に冒
されてゐる日常の中で ついその機を失
し 何度かそのやうにして今日に至ってをりました 先程ある本を探しつつ身辺
に山積する書類をかき分けてゐて貴翰に
めぐり会ひ 急ぎ機を逃さずにと甚だ遅
ればせの御礼状をしたためた次第です
拙文は既刊拙著よりの再録でしたが 折
あらば訂正いたさうと存じてをります
失礼のお詫びと御礼の言上まで
二月五日
大岡信
宮崎修二朗様
表装にも耐えうる見事な筆跡である。少し慌て気味の文面だが、なんとも丁寧に書かれている。平身低頭といっていいだろう。
出てきて良かったなあと、わたしは心から思ったことだった。
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)ほか。