1月号
浮世絵にみる 神戸ゆかりの「平清盛」 第1回
NHK大河ドラマ「平清盛」がスタートする。
「源平合戦」にみられる源氏、平家の盛衰は誠にドラマチックである。こうした源平合戦絵は江戸時代になって浮世絵にも登場したのだ。清盛が注目されるこの機に、神戸ゆかりの清盛に焦点を当て、福原遷都、経が島伝説、源平合戦などの浮世絵をご紹介しよう。
経が島建設の人柱となった松王丸の哀話
神戸とのかかわりは、平清盛(1118~1181)がここに大規模な国際港を計画したことから始まる。
それは、中国・宋との貿易で栄えた平家一族にとって、将来の命運にもかかわる最も重要なことであった。国際交易港建設にあたり、神戸こそその利にかない、加えて遷都を企て、平氏末代まで繁栄の地であると確信したに他ならない。
清盛は、遷都挙行より十年も早くから福原に移り住んで(1170)、海を埋め立て、人工島・経が島の建設にとりかかった。
今の兵庫・築島あたりを埋めて、経が島を築造し始めたのだが、余りにもスケールが大きく、民衆に多くの負担を強いる難工事であった。
たびかさなる台風や水害で事故が相次ぎ、工事中断もたびたび。安全祈願のため人柱をたてることになり、生田の森あたりで旅人をかどわかして人柱の犠牲にしようとした。その余りの惨たらしさを見かねた清盛の侍童・松王丸が身代わりを申し出て、罪なき人々の命を救ったという。
まだ幼い松王丸の犠牲に人々は涙したのだ。その際、経典一巻を添えて埋めたので経が島と名付けられたという。兵庫・築島寺には、松王丸の菩提が祀られている。
そんなエピソードが伝えられる経が島の建設は、当時としては今あるポート・アイランド建設よりもはるかに大事業だったに違いない。
このように計画遂行のためには多くの人民の犠牲が強いられたのだ。世に“悪逆無道の清盛”とよばれたのも、そのためである。
清盛は治承四年(1180年6月)、福原遷都を強行した。それは都びとたちの非難の的となったが、経が島の建設だけは歴史的大偉業であると『平家物語』では褒めたたえている。
ともあれ清盛は、わがミナト神戸の基礎をつくった大恩人といわねばならない。
図は、まさに沈まんとする夕日を扇で差し戻そうという道理をわきまえぬ権力者・清盛が描かれている。まさにおごれる清盛の象徴像として語り継がれてきたものだ。
しかし、見ようによっては、経が島の難工事に日々を惜しむ人間・清盛の苦悩する姿にもみてとれる。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。
1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。