6月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から ㊲ 『西田遮莫句集』
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
阪神武庫川駅は川の流れの上にある小さな駅。改札を出てすぐの踏切を南へ渡り、線路沿いを東に進む。だらだらと坂を下り、下り切って右へ折れると古い市場がある。かつては大賑わいをしたであろうが今は明かりも少なくシンとしている。その先を東へ曲がるとすぐ目の前、店からあふれ出た本の束が道の両縁に積み重なっている。わたしの馴染みの古書店「街の草」さんだ。そこで、店主の加納さんは、いつものように大量の本に埋まっている。
「お待ちしていました」とわたしの手に乗せてくださったのは一冊の古い本。引き換えのようにわたしは、出がけに家内が持たせてくれた家内手製の牡丹餅を氏の手に。
さて本である。
表紙には著者の筆跡で「西田遮莫句集」と一行あるのみ。もとは真っ白な表紙だったのだろうが、すでにむかし色だ。迂闊に扱えば、ハラハラと形を崩してしまいそうな、一見存在感のない本。
昭和二十五年四月五日発行。非売品。著者 西田遮莫。ひしの實發行所。岡山縣吉備郡箭田村三一三九。
これは滅多にお目にかかれない貴重な本だ。これまでにも書いているがわたしが最も尊敬する人、足立巻一先生に深く関係する本。著者の西田遮莫、本名西田正は、足立先生の名著『やちまた』(文部大臣芸術選奨)に何度も何度も登場する。足立先生と遮莫は「やちまた」の舞台のひとつである「神宮皇學館」での学友であり、のちに足立先生はその妹の俶さんと結婚。遮莫は足立先生の義兄となった人。残念ながら昭和24年に36歳の若さで没している。
足立先生には、多数の著書があるが、縁のあった多くの人の遺稿集の編集発行にも尽力されている。代表的なものは兄事した竹中郁の何冊かだろうが、恩師や友人のものなども手掛けておられる。これはその中の一冊。昭和25年ということは先生37歳、最も若き日の仕事であろう。しかも私家版、入手困難なわけだ。
『やちまた』にもチラリとこの本のことが出てくる。
《遮莫が骨になって愛着しぬいた学校に帰ったのは、その翌日であった。数日後、盛大な学校葬が営まれ、わたしは最初に焼香した。顔をあげると、花輪のなかに、傲然と眉をあげた遮莫の写真があった。
学校の経営は、叔父が継いだ。
遺品を整理していると、『定本遮莫句集』と題した厚表紙の本が出てきた。全部鳥の子用紙のノートで、毛筆で一ページに三句ずつ丹念に書かれている。昭和十九年の一句で終わっているところを見ると、そのころ再応召の日を覚悟してそれまでの句をまとめたらしい。わたしはこれにそののちの作品を加えて一本とし、一周忌の霊前にそなえ、知友に配った。》
ところが『西田遮莫句集』には足立巻一先生の名前は出ていない。奥付にもない。ただ一か所、遮莫の略年譜の中の昭和十七年の項に「妹俶、足立巻一に嫁す。」とあるのみ。これはなぜなのだろう。ただ、これは足立先生が書かれたものに違いないと思える文章があった。「後記」である。
《故人の遺稿に「定本西田遮莫句集」と題する一冊があり、B六判全鳥の子用紙上質のノートで厚表紙がつき、毛筆で一ページ三句ずつ丹念に書いてある。昭和十九年の一句で中絶しているので、おそらく招集解除直後、戦争の激化に鑑み再應召の日を覚悟して、それまでの句をまとめたものと思われる。(略)》
これは先の『やちまた』に出てくるものとほぼ一緒だ。しかし「後記」と題されているのに名前がない。このあとには遮莫夫人の謝辞が西田美枝子の名前で掲載されている。先生はなぜご自分の名前を付さなかったのだろうか?
俳句についてだが、わたしは門外漢なのでよく解らない。ということで足立先生の『やちまた』から引用させていただこう。
《正は皇学館のころ、わたし同様品行方正な優等生ではなかったが、頭脳が鋭く、気の強い大胆な学生であった。それはその俳句によくあらわれた。
白日や港はあれど野は枯れぬ
父は亡く寒夜の棕櫚に触れて行きぬ
これが二十代はじめの作である。
死の母の小さくゐたまふ春時雨
麦の穂のわがほゝへ伸び母はなし
母の死を悲しんだ句である。生きていれば一流の俳人になったであろう。》
もう一句紹介しておこう。
夏盛んわが肛門を見られ終はる
「八月十五日應召、翌日帰郷」と詞書されている。昭和18年の作。足立先生は「不敵な句」と評しておられる。その「翌日」、八月十六日はわたしが生まれた日だ。
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)ほか。