10月号
神戸鉄人伝(こうべくろがねびとでん) 芸術家女星編 第33回
剪画・文
とみさわかよの
大阪音楽大学名誉教授
永井 和子さん
永井和子さんと言えば、昭和期後半の関西オペラ界のプリマドンナ。モーツァルト、ヴェルディ、プッチーニなどのオペラに、主役級の役どころで出演された、花型歌手です。並行して取り組んできたリート(ドイツ歌曲や日本歌曲)で、今なお色あせぬ美声を響かせています。「演奏会は一期一会。来ていただく方のお時間を頂くわけだから、恥ずかしくない演奏をしないといけない」とご自身にも厳しい永井さんは、大阪音楽大学でたくさんの後進を育ててこられました。歌い手として、また指導者として生きてきた永井さんに、お話をうかがいました。
―音楽の道に進まれたのは何故ですか?
私の実家は京都で、母は典型的な昔の女性でした。女の子は女学校を卒業したらお裁縫とお茶・お花を習って主婦になるのが当然、という教育方針。でもおませだった私は、別に女性が働いてもいいじゃないの、自分の人生を見つけたっていいじゃないの、と思ったんですね。私が音楽をやりたいと言っても、最初は理解してもらえませんでした。家にピアノも無いし、京都市立堀川高等学校音楽課程(現京都市立音楽高等学校)に入るのに、中学校の音楽室のピアノで練習しました。でも我流でしたから、高校では最下位で…早朝や放課後に、バイエルから必死で練習しました。あの頃が一番練習したかしらねえ。
―猛練習の末に音大へ進まれ、ソリストとして活躍されるようになります。
声楽を選んだのは、人間は喉に楽器があるんだからそれを使おうと思った、単純な思いつき。母が根負けして、中学3年生から声楽だけは習わせてくれました。でも、オペラ歌手やリート歌手になろうなんて考えてもおらず、学生時代は僻地の学校の先生になりたいと思っていたんですよ。大阪音楽大学を卒業後、そのまま大阪音楽大学付属音楽高等学校の非常勤講師と同大学の助手になり、その後44年間も勤めることになりました。大学で教えて、ソロ活動をして、結婚・子育ても…それはもう忙しくて。でも親の反対を押し切って進んだ道ですから、やめるにやめられませんでした。「いつかこうしよう」ではなく「今これをしたい!」で突き進んで来ましたね。そして母は、最終的には献身的に援助をしてくれました。今日の私があるのは、母のおかげです。
―西洋オペラが日本で上演された当初は、演出も古典芸能のようで、日本語上演ばかりだったとうかがいました。
私の学生時代は、日本に西洋オペラが上陸して、さあこれから!といった時期。ちょうど朝比奈隆先生(故人)が、関西交響楽団(現大阪フィルハーモニー交響楽団)を設立、追って関西歌劇団を創られた頃です。私がご指導いただいた演出家は、宝塚歌劇の菅沼潤先生(故人)、大蔵流狂言の茂山千之丞先生(故人)など。だから、「型」にはめたような所作が多かったですね。その後10年くらいの間に、今のようなリアルな演出に変わっていきました。最も苦労したのは言葉で、ヨーロッパの音楽に日本語をのせて歌うだけでも大変なのに、オペラは言葉が聞き取れないと筋書きがわからないから、歌詞がわかるように発語するのは至難の業。関西歌劇団は、朝比奈先生の訳語で歌うのが常でした。文学部ご出身の朝比奈先生の訳語は、語彙が豊富で非常にロマンのある言葉でしたね。先生にはよく、「文語体くらい勉強しておけ!」と叱咤されました。リートの世界を研究するに従って、言葉の重要性に改めて気付くのですが、私の中では音楽作りも含めて、あの頃の先生の教えが基本になっています。
―オペラと歌曲と、歌い手の立場から見た両者の違いは、どういった点でしょう。
オペラは指揮者、演出家、オーケストラ、他の配役とのアンサンブルですから、自分の好きなようには歌えませんが、大勢の共同作業で舞台を創る醍醐味があります。対して歌曲は、自在にやれる反面、自分ひとりでお客様の心をつかまなければなりません。照明や衣装に助けてもらうこともできず、緻密な計算の上で創り上げていく必要があります。歌曲は、正しい旋律の上にのせて、刹那に言葉がわかることが最も大切な条件で、美しい響きだけではだめ。一単語から句へと言葉が流れ届いて、初めて成立する芸術です。言葉そのものが持つ表現術と言葉を届ける発声技術の極意、それらを満たす発声のメカニズムを研究し、その訓練法を見つけ出すことが、私のフィールドワークとなりました。
―発声のメカニズムというと、声の出し方の論理的な解明、ということでしょうか。
よく言われる「響きを高く、頭のてっぺんから声を出して!」みたいなのは、かなり感覚的な指導法です。そう言われて発声の極意をつかめるのは、初めから恵まれた体を持っている人だけ。努力しないと理にかなった声を出せない人には、もっとわかりやすい説明が必要なんです。私は努力で声を磨いてきた歌手ですから、肺の空気を出して、喉にある声帯を震わせて声を出すという、当たり前のことに30歳半ばにして目覚めて再出発、発生を勉強しました。耳鼻咽喉科の先生とのタイアップで、現在も研究を続けています。指導法によって、50歳くらいで声楽に目覚める人もいるんですよ。
―歌い手としても、指導者としても第一線で生きてこられたわけですが、女性としても夢かなえた人生と言えますか?
もちろん、満足しています。他人の目にどう映るかは判りませんが、私自身は今幸せですよ。同じ音楽の世界に生きている主人は、私の活動の良き理解者ですし。私たち世代は高度成長期の波に乗って、大変でも皆でがんばろうという時代を生きてきました。どんな時代の人にも、その人なりのいろんな苦悩・苦労があると思います。私も山あり谷あり、そんな中でも充実していられたのは、演奏家の方々とのおつきあいや、弟子との交流に支えられたからでしょう。年齢を重ねれば、病や不幸なことも経験しますけれど、与えられるがままに、そしてお役に立てるなら何でも…という心掛けで生きていきたいものですね。
(2012年7月30日取材)
とみさわ かよの
神戸市出身・在住。剪画作家。石田良介日本剪画協会会長に師事。
神戸のまちとそこに生きる人々を剪画(切り絵)で描き続けている。
日本剪画協会会員・認定講師。神戸芸術文化会議会員。