12月号
浮世絵にみる神戸ゆかりの源平合戦 第24回
中右 瑛
女人哀史
義経を恋う静御前の舞
悲劇の英雄・源義経と歌舞の才芸に秀でた薄命の佳人、白拍子・静との恋は、純で凛とした日本的な恋物語として語り継がれている。
静は京都・北白川出身。母は同じく白拍子の、磯の禅師という。静の白拍子としてのデビューは、後白河上皇の求めに応じて雨乞いの舞を、百人の白拍子とともに奉納した際のこと。ひときわ抜きん出ていた美貌の静の舞に、神が感応したのか三日間も続く大雨が降った。以来、静の美貌と才芸の名声は、都中に広まったという。
平家を壇ノ浦で滅した智勇名将・義経が京に凱旋し、邸を構えたとき、多くの公卿や平家ゆかりの武家たちが、身の安泰のため、義経に多くの白拍子を差し出した。その中に静がいた。義経は美しい静に心を奪われた。
義経の人気が高まるにつけ、兄・頼朝は義経を強く警戒しはじめ、側近の梶原景時の讒言により、義経追討が下された。
都落ちをする義経一行は、尼崎大物浦より西国に向け船出。静も同行していたが、船は難破し、大阪住吉の浜に打ち上げられた。
その後、雪の吉野山で義経と静は別れ別れになり、義経の消息は途絶えた。これが、義経と静との生涯の別れとなった。
静はやっとのことで北白川にたどり着くが、間もなく鎌倉に召し出される。
文治2(1186)年4月、鶴岡八幡宮で頼朝公の御前に引き出され、奉納舞を求められた。
白い小袖に白い袴。頭に水干をつけた白拍子姿の静は、哀しくもあわれ、なんとも不思議な魅力をかもし出していた。義経への愛を切々と詠じ、舞う静の姿に、一同は感嘆した。
しづやしづ 賤(しづ)のをだまき繰り返し
昔を今に なすよしもがな
吉野山 嶺の白雪踏みわけて
入りにし人の 跡ぞ悲しき
頼朝公の面前で、恐れ気もなく義経への恋慕の心情を歌い上げたが、頼朝公や正妻・政子は不快感をあらわに嫉妬したという。
このとき、静はすでに義経の子を身ごもっており、7月に生まれた男の子は抹殺された。その直後の9月、静は北白川に戻ることを許された。
静は、子を殺された悲しみが癒えず、髪を下して子の菩提を弔う。しかし、その翌年、20歳の短い生涯を終えた。
一方、義経は各地を流浪の後、奥州藤原秀衡方にかくまわれていたのだが、秀衡亡きあとの文治5(1189)年、衣川の館の戦でついに討ち死にした。
政争に巻き込まれた義経と、薄命の佳人・静との哀しい恋として、後世に語り伝えられている。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。