4月号
淡路島の春は、「だんじり」とともにやってくる。
文・桜井一郎
だんじりのふる里・淡路島のだんじり祭り、その魅力とは
朝廷に食物を供する御食国(みけつくに)だった淡路島には、海や大地に感謝する神事も多く、その一つが勇壮かつ美麗なだんじり祭りだ。淡路島のだんじり祭りの楽しみは、煌びやかな勇姿と水引き幕、提灯などの刺繍・高欄、狭間などの彫刻、金綱(布団締め、胴巻き)などの美術品、そして勇壮な練りと情緒あふれる『だんじり唄』である。真っ紅な「布団(ふとん)」と呼ばれる飾りや、精緻な木彫刻に金色の綱や刺しゅう幕を巻いた派手なだんじりの練り、宮入りには、島に伝わる500年の伝統をもつ人形浄瑠璃から派生した「だんじり唄」を奉納するのである。
淡路島の春は、「だんじり」とともにやってくる。だんじりといえば、全力で街中を疾走する泉州・岸和田や播州の荒々しい祭りが知られるが、淡路島はそれらより長い歴史を持つとの説もある「だんじりのふる里」と呼ばれる土地柄なのだ。淡路のだんじりの始まりは、おそらく17世紀末。明治中ごろには、島も豊かになり、各地が競ってだんじり製作を始めたという。競えば、仕様はより豪華になる。淡路のだんじりは、その華やかさも大きな特徴だ。
淡路島各地には300を超す神社があり、350基以上のだんじりが各地の祭礼をにぎわしている。島で一番多いのが「布団だんじり」。五段重ねの真っ紅な布団が目に飛び込んでくる。そのほか、だんじりの元祖と言われる『舟だんじり』、布団のない『投げだんじり』、ひっくり返すなど動きが激しい『遣いだんじり』、『舞台付曳だんじり』、『岸和田風曳だんじり』など約350基あり、これほど多彩なだんじりが揃うのは、全国でも淡路島だけである。元々、淡路島にはだんじり彫刻の匠が多く育っており、これまでに泉州や播州方面の多くのだんじりの彫刻を手掛けてきた。
淡路島のだんじりの魅力は多彩さ
《淡路のだんじりは動く美術館!》
幾多の名工の技により造り出され地域の文化財として受け継がれてきた淡路島のだんじりの魅力は、美しい勇姿はもとより水引きなどの刺繍、高欄・狭間などの彫刻、金綱などの美術工芸品。まさに動く美術館といえる。また道中や宮入りでのだんじりの「練り」と「唄」も楽しみの一つ。そして勇壮な練りと情緒あふれる『だんじり唄』など、魅力がたっぷり。
淡路島のだんじりは、形の上で大きく分けて六種類に分けられる。一般的なだんじりは、赤い布団を重ねた五重の『布団だんじり』だが、鳥飼八幡(洲本市)や伊弉諾神宮(淡路市)にみられる『舟だんじり』、南あわじ市・市地区や湊地区にみられる『投げだんじり』、洲本や岩屋にみられる『舞台付き曳きダンジリ』、旧一宮地区にみられる『遣いだんじり』、沼島地区にみられる『岸和田風曳きだんじり』など、多彩な姿や形のだんじりが淡路島内で約350基が動いている。
淡路島にはかの有名な日光東照宮の“眠り猫”などの作品で知られる彫師 左甚五郎の流れをくむ、斉藤萬琳斉・黒田正勝・開正籐・開正珉・川原啓秀・松田正幸・松田正彦などの彫刻師を輩出し、彼らは、淡路はもちろん泉州や播州方面で多くの作品を残している。江戸末期から明治期にかけて各地区が競ってだんじりの製作を行い、その多くが彼らの手による作品で、今も各地の祭礼で見受けられる。材料はケヤキ材やヒノキ材を用いて造られているのが多いが、彼らの素晴らしい技術で紫檀や黒檀などの堅固な唐木材料で彫られたものも存在する。それらは彫師の誇りであり地区の自慢でもある。
彫物には、鳥獣・草木などの「花鳥物」や故事・神話・退治物・合戦物などが彫られた「人物物」に二分される。だんじりを飾るもう一つは水引き幕。定番の「龍」や「虎」のほか、屋根の突出しが50㎝もある浮きもの刺繍で作られた「御殿物」といわれる刺繍幕も見応えがある。皆さんにも、祭礼時にこれらの作品を確認していただきたい。
《場所(ところ)変われば練り(しな)変わる》
淡路島には神社が300社余り存在する。だんじりの練り一つ見ても随分と違いがあり、淡路の北方面は主に担ぎ上げる練りが多く、南方面は曳き回すのが主流である。最近、どの地区も若衆が少なくなり、だんじりを出すこと自体が難しくなってきている。それでも年に一度の祭礼には競ってだんじりを出し、地区によれば練る時は他地区の応援を得て担ぐ所もある。北淡路方面では殆どの地区のだんじりは担ぎ上げて「ささ捧げましょ!」の合図で高く担ぎ上げ、見事担ぎ上げれば拍手喝采を浴びる。
南あわじ市が行っている《淡路だんじり祭り》で面白い場面が見られた。各地区から30台程のだんじりが集まり、最後に総練りが行われる時グランドに円形の練り場と直線の練り場を設けた。旧南淡町から出場しただんじりはひたすら真っすぐ走り続けるが、その他の地区のだんじりは円を描くように練り歩いた。同じ南淡路でも、このように錬り方に違いが観られる。
《地域パワーと女性パワー》
昔から、だんじりに参加できるのは男子と決まっていたが、最近は女子が参加する地区も見られる。岩屋地区の曳きだんじりは女子が主役なのだ。だんじりの前面に女子5~6人が着物姿に日の丸の扇子を持って踊りながら扇動する。最近、伊勢久留麻神社では女子高生2人が高欄の前に立ち、法被姿で扇子を持って扇動している。
沼島の春祭りには、多くの島出身者が祭りに合わせて帰省し、人口が3倍以上にも膨らむ。沼島と灘・土生を結ぶ連絡船は積み残しが出て臨時便が出る始末で、船にはたくさんのお土産や荷物を抱えて乗り込んで来る。また淡路島側の仕出し店から寿司やオードブルが沢山積み込まれてくる。各地区のだんじりの周りには、揃いの法被を着た若い衆や浴衣風のマイハッピ持参で参加している女性陣の大きな集団ができる。若い衆の太鼓に合わせて、女性陣は掛け声と共に踊りだす。
まさに「所変われば品変わる」ではなく「場所が変われば練りが変わる」である。
《淡路のだんじりは何処から・・・》
淡路島のだんじり(壇尻)は台尻の転化したもので、『淡路の誇り(下巻)』によると永享8年(1436)に第102代・後花園天皇が、尾張の国島津祭の時に土地の人達が相談して11隻の船に幕を張り幟を立て、「台尻」という役職についていた大隅守を攻め討ち取った時、「皆の衆台尻を討ち取ったり!」と歓喜したという。その後、飾り船を『台尻』と呼ぶようになり、陸上にも台尻を造り、祭りに出すようになった。
【陸から・・・?】
淡路島のだんじりの始めは、元禄3年(1690)当時、洲本の庄二郎または与二郎という船頭が交易のために九州の日向の国(宮崎県)へ行った際、古物商から屋台を買って帰り、官府の許可を得て同年8月の洲本八幡神社の祭礼に出したのが起源だといわれている。このだんじりは大勢で綱を持って町内を曳き歩いた。そのとき各地で起こった出来事を面白おかしく風刺的に行ったのが有名になった。これに刺激された他の村落でも、次々とだんじりが造られるようになり、また時代と共に造りにも改良が加えられていった。
寛保3年(1743)頃からだんじりは大型化し、舞台付のだんじりが造られて、浄瑠璃入りで演芸なども取り入れられるようになった。
【海から・・・?】
舟だんじりの始めは、元禄6年(1693)郡家浦の船乗り12人が乗った江戸廻船が、伊勢の大王崎で嵐のため遭難にあったが、何とか無事に助かったことから、海と船に感謝した浦人が、舟だんじりを伊弉諾神宮に奉納したのが始まりだといわれている。
享保16年(1731)、洲本の漁師町で造ったのは朱塗りの船で、天幕、吹抜、引き幕などの飾りをつけて、だんだん豪華なものになっていった。
各地の浦(漁師町)では多くの舟だんじりが祭礼に出された。伊弉諾神宮の他にも、鳥飼八幡神社や塩田の春日神社、湊口八幡神社などの村落にも次々と舟だんじりが造られ、船や車に幕を張り、旗や幟をたてて飾りたてたようである。
寛保3年(1743)ごろから、だんじりは大型化し、浄瑠璃入りで演芸などを行う地域も出てきた。 その後、曳きだんじりが屋台風と五重の布団だんじりに代わっていく。
【その後、各地に普及して・・・】
寛保3年(1743)頃からだんじりは大型化し、舞台付のだんじりが造られて、浄瑠璃入りで演芸などが取り入れられた。江戸時代の後半からは庶民の生活も豊かになり、生活にゆとりができ、祭りも信仰から娯楽へと変っていった。
形も各地で特色あるものに変り、初期の頃は、船に幕を張り幟を立てた飾り船から始まり、屋台に彫刻や刺繍などを取り入れた豪華絢爛なものに変遷していった。この頃から、だんじりが全島的に造られるようになってくる。
現在のような大型で真っ紅な五重の布団だんじりが造られるようになったのは明治23年頃からで、島内各地では競ってだんじり造りが行われた。更に、彫刻・金綱・水引・提灯などが、年を追って豪華なものに変っていった。
《だんじり唄のルーツは?》
淡路島に台尻(壇尻の始め)が入って約320年以上になる。初めの頃はただ拍子木に合わせて掛け声をかけたり、簡単な囃子をしていた程度であったが、江戸末期から明治の初めにかけて、伊勢音頭や祇園ばやしのほか、各地の民謡などを取り入れて唄らしくなってきた。明治20年頃、島内各地でふとん壇尻が造りだされたのを機に、淡路人形浄瑠璃の各外題を取り上げ、各段切りの中のクライマックスな場面を抜粋して創られたのが、淡路独特の民俗芸能『だんじり唄』となった。
祭礼当日、神社の拝殿正面に壇尻が据えられると、境内の参拝の人たちが壇尻の周りに集まってきて、これから始まろうとするだんじり唄に聞き耳をたてる。拍子木を合図に「ダシ」からはじまり、「連れ節」(全員唱)から各人が役者になりきって熱唱するだんじり唄は祭礼の花形となり、各地区の出し物(外題)を知って、参拝者は楽しんで出かけて行く。なお、このほかに伊勢音頭に端を発する「祇園ばやし」や「木遣り唄」などが壇尻の道中唄や奉納唄として各地で唄われているのも、忘れてはならない。
最近になって、各地区の文化芸能祭や淡路だんじり唄コンクールで多くの団体が参加するようになった。これだけ高く評価される「だんじり唄」は、皆の心にいつまでも残る、地域の伝統芸能としての滅さを物語っている。外題は数十に及び、有名なものとしては、「傾城阿波鳴門巡礼唄の段」、「仮名手本忠臣蔵三段目」、「三国伝来玉藻前三段目」(金藤治上使の段)、「朝顔日記」(大井川の場)、「孫市」(絵本太閤記七段目 杉の森の段)、「いざり」(箱根霊験記十一段目 箱根瀧の段)、「小桜責め」(源平布引滝 松並検校琵琶)などがある。なお同様の節回しによる新作物として、「岸壁の母」、「王将」、「番場の忠太郎」、「大利根無情」、などもある。
HP「淡路島のだんじり祭り、その魅力とは・・・」
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