2015年
4月号
「誠忠義心傳 大星良雄内室石女」歌川国芳画

第十四回 兵庫ゆかりの伝説浮世絵

カテゴリ:文化・芸術・音楽


中右 瑛

大石内蔵助の妻・但馬豊岡の実家に戻る

 赤穂義士は男の美学を貫いて逝った。残された女たち。その時から知られざる女の闘いが始まる。男の影で泣く義士の女たち。内蔵助の妻リクもそうだ。
 住み慣れた赤穂城を明け渡し京山科で隠棲する大石内蔵助に決断の時が迫った。仇討か、それともお家再興か。仇討を決心した場合、身辺の整理をしなくてはならない。先ず妻リクとの離縁から始まる。内蔵助らが討ち入りという大罪を犯した場合、家族への罪が及ばぬよう配慮したのである。
 元禄15年(1702)の春、内蔵助はリクに離縁状を渡し、妻の実家・但馬豊岡に戻した。元服を前にした長男主税(ちから)良金(15歳)は内蔵助の手元に残し、成人前の子供たちは妻に同行させた。
 リクは但馬豊岡藩主・京極甲斐守の家老・石束(いしづか)源五兵衛の娘である。内蔵助に嫁して三男二女を儲けた。長男主税、次男吉千代(12歳)、長女くう(13歳)、次女るりの4人で、リクが懐妊中であったので、実家の方が安心して療養できるというのが表向きの理由だった。源五兵衛は内蔵助の仇討の心情を密かに察し、快く引き受けた。その後、リクは三男大三郎を産んだ。
 次男吉千代は城崎竹野村圓通寺に預け、祖錬元快と称し仏門に入った。まだ幼い大三郎は丹後の国熊野郡須田村の眼科医林文左衛門と養子縁組をした。全ては、子供たちまでお咎めを受けることを慮っての処置であった。リクの手元には二人の娘だけが残った。元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士は吉良邸に討ち入り、吉良の首を討ち取った。翌年2月4日、討ち入り浪士全員に切腹の沙汰が下る。内蔵助、主税ら一同46名が切腹。浪士の成人した遺児たち19名は流刑(島流し)となる。47士の内、寺坂吉兵衛がいない。このことは次回で検証する。
 仇討の快挙は豊岡にいるリクにも届いた。リクや源五兵衛たちは、討ち入りの快挙には大いに喜んだが、浪士全員が切腹して果てたことにはショックであったろう。加えて、リクの身辺に悲しい出来事が起こった。長女くうは父内蔵助、兄主税らが切腹した翌年の永宝元年(1704)、15歳で夭逝した。リクの手元に残ったのは次女るりただ一人となった。夫や子たちを亡くしたリクの気持ちは計り知れない。しかし、世間は厳しかった。“死に遅れた大石の妻”という烙印をおされた。リクは髪をおろし、香林院と称し、菩提をとむらった。
 討ち入り事件から7年目の永宝6年(1709)、将軍綱吉が薨(みまか)った。幕府は大赦令を発し遺児全員も特赦され、晴れて白日の身となった。僧となっていた次男、吉千代はその直前、19歳の命を終えていた。ただ一人となった大石家の嫡子・三男大三郎は養子家から戻してもらい、大石代三郎と改名し、大石家の名跡を継いだ。肩身の狭い思いをしていたリクは一変して赤穂義士の妻として崇められた。
 正徳3年(1713)、12歳となった代三郎は広島藩の浅野本家吉長に召し出され禄高1500石を給される。リクは隠居料として100石を賜り、次女るりは一族の浅野長十郎監物に嫁し、幸せな家庭を築いた。二男四女を儲け、53歳で没す。
 享保2年(1717)、代三郎は16歳のとき元服。同藩年寄役5000石浅野帯刀の娘と結婚、代三郎は長じて旗奉行、番頭にまで出世した。明和元年(1764)、家督を嫡子良尚に譲って隠居した。明和7年(1770)11月、69歳で没す。
 リクは世間からはさまざまに評価された。亡君・夫のため、なぜ殉死しなかったのかとか、生き恥をさらしたとかいわれたが、耐えて耐えて子のために生き延びた。妻として、母として貞淑烈女。武士の女性としての鏡ともいう。

「誠忠義心傳 大星良雄内室石女」歌川国芳画

■中右瑛(なかう・えい)

抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。
1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。

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