6月号
日本オープンゴルフ選手権とは?
六甲国際ゴルフ倶楽部で日本オープンゴルフ選手権が開催されるのは今回で2回目となる。
そこでナショナルオープンとしての伝統を受け継いできた本大会の歩みを振り返ります。
日本オープンのルーツは神戸にあった
1907年10月20日、日本アマチュア選手権が、ゴルフ発祥の地・神戸の「神戸ゴルフ倶楽部」で開催された。日本人は誰一人ゴルフをやっていない時代、〝日本〟といっても、実際は日本にいる外国人選手権だった。次第に日本人ゴルファーが外国人にとってかわり、1914年に日本人だけの倶楽部として生まれた東京ゴルフ倶楽部(駒沢)で磨きをかけたプレーヤーの中から井上信氏が優勝、続いて川崎肇氏が勝ち、その頃既に大谷光明氏、赤星四郎氏・六郎氏、田中善三氏などが主軸を占める選手権となっていた。このアマチュア選手権が名実ともに日本のものとなったのは、1924年10月に設立されたジャパン・ゴルフ・アソシエーション(JGA、現・日本ゴルフ協会)が、在日外国人から選手権主催を継承してからである。同時に日本オープン選手権と関東・関西地域対抗競技(アマチュア東西対抗戦・1970年廃止)創設を決定した。
初代チャンピオンは赤星六郎氏。日本ゴルフ界に大きく貢献
日本オープン選手権開催に向け、大谷光明氏が英国に渡り制度を研究した。セント・アンドルーズのルールを採用し、アマチュアの参加資格を決めるナショナルハンディキャップの導入を図った。全ての準備を終え、JGA設立から2年7カ月後の1927年5月、程ヶ谷カントリー倶楽部(横浜)で「第1回日本オープン選手権競技」が開催された。この大会を制した初代チャンピオンは、アメリカでゴルフを履修したアマチュアの赤星六郎氏だった。彼は渡米中に得た近代ゴルフの知識を、日本ゴルフ界創生期の安田幸吉氏、浅見緑蔵氏、宮本留吉氏、陳清水氏などに教えた名コーチともいわれ、日本のゴルフ界に大きく貢献した最も重要な人物である。しかしやがて戦禍の影響を受けJGAは解散、1941年5月に自粛ムードの中、程ヶ谷カントリー倶楽部で開催された大会を最後に、休止を余儀なくされた。
世界基準のナショナルオープンを目指す
1949年、JGAは再建され、1950年10月、我孫子ゴルフ倶楽部で戦後初の大会が開催された。以来、毎年10月中旬、都道府県を変えて開催され、数多くの名勝負を残しながら注目を集めてきた。日本女子オープン、日本シニアオープンと共に、世界基準のナショナルオープンとして全米・全英オープンに代表される大会を目標に、JGAでは、選手にとってフェアであり良いプレーが行なわれる舞台であることはもちろん、ギャラリーが楽しめる環境の提供が可能であることなどを条件として、厳しい基準を設定している。80回目を迎える今大会から、JGAはハンディキャップを持つアマチュアが参加できる予選会「ドリームステージ」の導入を決定し、多くのアマチュアゴルファーからの反響を得ている。100年にも及ぶ歴史を守りながら、日本オープンは時代のニーズに応えるべく、新たなチャレンジを怠ることなく成長し続けている。