4月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から95 日野草城の妻
ある日の神戸新聞「正平調」を読んでいて笑ってしまった。
《地元言葉には人柄や風土がにじむ。》とあって、「但馬版」の話だ。
《カニ漁の船に乗る外国人の実習生が、「何し とるだいや」「だらず(あほ)!」と言い合ってい るそう。》
その様子が目に見えるようで愉快。私も妻もルーツが但馬なもので。
また、その文末に俳人日野草城の名前が出てきて、たしか、この人のハガキがあったはずと調べてみた。だがそれは本人からのものではなく草城夫人からのものだった。
昭和34年の消印。草城は昭和31年に54歳で亡くなっている。宛名は「のじぎく文庫内 宮崎修二朗」。
その文面。
《結構な御主旨 御同慶に存じます
草城随筆「赤穂御崎」御掲載のこと
承諾申上げました
日野草城妻 晏子代筆》
これは宮崎翁が著書『兵庫県文学読本』への掲載許可を求めたものへの返信だ。
たしかに草城の「赤穂御崎」が載っている。その中のわたしの好きな箇所。
《座敷へ通る。いきなり海だ。部屋いっぱいの海だ。雲つた月にいぶされて微茫として水天を辨ぜざる白銀の大幅だ。十七字を以て之を描写せよといふのか。茶を喫し心魂をしづめて再び水墨の大景観に対ふ。絵になりすぎてゐると嘆いたのは僕一人ではなかつた。(略)月夜の波だ。弧を描く一線は魞。ありなしの島影は小豆島。凪。こんな凪があり得るものであらうか。》
いかにも俳人らしい、切れのいい文章だ。
草城のこと、わたしこれまであまり知らなかったので少し調べてみた。すると、『人生の午後』という句集があり妻への献辞が添えられている。
《晏子さん
もしもあなたがわたしを支えてゐてくれなかったなら 私のいのちは今日まで保たれなかったでせう この貧しい著書をあなたに贈ります これが今の私に出来る精一杯の御礼なのです
一九五三年七月 草城》
明治生まれ、夫権制社会の中で育った草城の、妻への言葉。時代を考えると草城はよほどやさしい人だったと思われる。
わたしは興味が深まり、図書館から『現代俳句文學全集 日野草城集』(昭和32年角川書店)をお借りしてきた。こんな俳句もある。
切り干しやいのちの限り妻の恩 草城
日野の俳人としての経歴や評価のこと(それはそれで興味深いのだが)はここには書かない。
俳句と合わせて載っている散文、その中でも妻、晏子のことを書いたものに魅かれた。
「女流俳人日野眞冴」と題された文章がある。
ごく手短に、略しながら引用する。(引用に際して旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた。)
《それほど俳句とは性の合わない細君が俳句を作ろうと試みたことがずっと以前にあった。全く細君の自発的意思で、また新婚早々の若妻の夫に対する愛情と儀礼との意味で、進まぬ心に鞭をあてつつ、五七五と指折り数えながら何とかして俳句らしいものをこしらえ上げ、この油断のならぬ夫を喜ばせたいと心を砕いたことであったかと思えば、いじらしさに涙がこぼれそうな、(略)さてその時のいじらしき試作品はどんなものであったか、その二つ。
春雨にぬれてまさをき菖蒲の芽
公園の新樹は闇に涼み舟
この句がすぐれているかどうかは批評は差し控える。
細君がもしも将来何かのはずみで俳句を作る気になったら、どんな俳号をつけてやろうかなと考え、そのうち行き当たったのが「眞冴」である。
細君は一見して気に入ってしまった。》
あれ?と思った。草城の献辞には「晏子」とある。なぜ「眞冴」ではないのか?
この項の末尾に㊟があり、《日野眞冴は、更に現在の日野晏子と改名された。》とある。あらら、そうだったのか、である。ちなみに本名は政江。
最後にわたしの大好きな妻への一句。
妻の留守妻の常着を眺めおり 草城
六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会員。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。西宮芸術文化協会会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)ほか。